「安藤昌益」の版間の差分
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'''安藤 昌益'''︵あんどう しょうえき、 死後、近代の日本において、[[社会主義]]・[[共産主義]]にも通じる思想を持った人物として評価を受けた。
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長男ではなく利発であったことから元服前後に京都に上り、仏門に入り禅を学んだ︵寺は[[妙心寺]]︶。[[北野天満宮]]でも修行した。しかし仏教の教えと現状に疑問を持ち、︵伝手は不明ながら︶医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は[[後世派|後世方別派]]に属する医師であった。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚して子ももうけている。 [[File:Ando Shoeki Monument in Tenshoji Temple.jpg|thumb|「昌益思想発祥の地」記念碑([[青森県]][[八戸市]]・[[天聖寺]])]]
[[陸奥国]][[八戸市|八戸]]の櫓︵やぐら︶横丁に居住し開業医となった。[[延享]]元年︵[[1744年]]︶8月の[[八戸藩]]の日記<ref>藩の公用日記﹃八戸藩日記﹄</ref>には、[[櫛引八幡宮]]の[[流鏑馬]]の射手を治療したことが記録に残されている。延享2年︵1745年︶領主層を対象とした政治の書﹃暦大意﹄を執筆した。しかし、昌益は一介の町医者であり町人身分に過ぎないが。その中で﹁民苦しみ穀種絶つときは、則ち国亡ぶ。国亡ぶる則は、国主自ら減却ぞ。罰恥百世に殆す者也﹂︵﹃暦大意﹄<歳変>︶と不仁の領主を厳しく非難している<ref>若尾政希、2004年、247ページ</ref>。 15 ⟶ 16行目:
昌益の大著﹃自然真営道﹄は宝暦3年︵1753年︶に刊行された。門人仙庵の序から昌益の学派は、社会的反響について細心の警戒を持っていたことが知られる<ref>[[丸山眞男]]﹁付章2安藤昌益﹂︵1945年度講義・第12章︶﹃丸山真男講義録 第1冊 日本政治思想史 1948﹄[[東京大学出版会]]、1998年、252ページ</ref>。 [[宝暦]]6年︵[[1756年]]︶9月、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった︵八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため︶。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち︵真栄道の弟子︶が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻って60歳で病死した。墓所は大館市温泉寺(秋田県指定史跡)。 == 思想 ==
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