「安藤昌益」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
(他の1人の利用者による、間の1版が非表示) | |||
1行目:
{{脚注の不足|date=2016年3月}}
'''安藤 昌益'''︵あんどう しょうえき、 死後、近代の日本において、[[社会主義]]・[[共産主義]]にも通じる思想を持った人物として評価を受けた。
16行目:
昌益の大著﹃自然真営道﹄は宝暦3年︵1753年︶に刊行された。門人仙庵の序から昌益の学派は、社会的反響について細心の警戒を持っていたことが知られる<ref>[[丸山眞男]]﹁付章2安藤昌益﹂︵1945年度講義・第12章︶﹃丸山真男講義録 第1冊 日本政治思想史 1948﹄[[東京大学出版会]]、1998年、252ページ</ref>。 [[宝暦]]6年︵[[1756年]]︶9月、郷里の本家を継いでいた兄が亡くなり、家督を継ぐものがいなくなった。このため、宝暦8年ごろに二井田に1人で戻った。結局、家督は親戚筋から養子を迎え入れて継がせたが、昌益自身も村に残り村人の治療にあたった︵八戸では既に息子が周伯を名乗って医師として独り立ちしていたため︶。なお、宝暦10年前後には、八戸の弟子たち︵真栄道の弟子︶が一門の全国集会を開催し、昌益も参加した。参加者は松前から京都、大阪まで総勢14名。その後再び郷里へ戻って60歳で病死した。墓所は大館市温泉寺(秋田県指定史跡)。 == 思想 ==
|