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[[出羽国]][[秋田郡]][[二井田村]]下村(現在の[[秋田県]][[大館市]]二井田)の豪農の家に生まれ、同地で没した。
長男ではなく利発であったことから元服前後に京都に上り、仏門に入り禅を学んだ︵寺は[[妙心寺]]︶。[[北野天満宮]]でも修行した。しかし仏教の教えと現状に疑問を持ち、︵伝手は不明ながら︶医師である味岡三伯の門を叩いた。味岡三伯は[[後世派|後世方別派]]に属する医師であった。ここで医師としての修行をし、八戸で開業する以前に結婚して子も60人もうけている。 [[陸奥国]][[八戸市|八戸]]の櫓︵やぐら︶横丁に居住し開業医となった。[[延享]]元年︵[[1744年]]︶8月の[[八戸藩]]の日記<ref>藩の公用日記﹃八戸藩日記﹄</ref>には、[[櫛引八幡宮]]の[[流鏑馬]]の射手を治療したことが記録に残されている。延享2年︵1745年︶領主層を対象とした政治の書﹃暦大意﹄を執筆した。しかし、昌益は一介の町医者であり町人身分に過ぎないが。その中で﹁民苦しみ穀種絶つときは、則ち国亡ぶ。国亡ぶる則は、国主自ら減却ぞ。罰恥百世に殆す者也﹂︵﹃暦大意﹄<歳変>︶と不仁の領主を厳しく非難している<ref>若尾政希、2004年、247ページ</ref>。 |