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== 人物 ==
[[ファイル:小栗忠順.jpg|thumb|180px|雑司ヶ谷霊園にある小栗忠順の墓]]
* 小栗は1867年の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]に際して﹁日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する﹂計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、﹁幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い﹂と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは﹁小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった﹂と語っている<ref>尾佐竹猛 112頁。ただし、本文中には必ずしも信ずるには足らずと註がある。</ref>。 * 小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、﹁器械﹂という単語を捩って﹁製糞器﹂と呼び、彼らを嘲っている<ref>小野寺 153頁。</ref>。一説には、英語の﹁company﹂を﹁[[商社]]﹂と訳したのは小栗とされる<ref>[[広辞苑]]第六版 ﹁商社﹂1379頁。</ref>。 |