「小栗忠順」の版間の差分
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などを提言したが、容れられず外国奉行を辞任した<ref>横山 109-125頁、田辺1、177-185頁</ref><ref>しかし、結局ロシア艦を退去させるために英国海軍の圧力が必要となった。</ref>。 文久2年︵[[1862年]]︶、[[勘定奉行]]に就任し、名乗りを小栗豊後守から上野介に変更する。幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は[[幕府海軍|海軍]]力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に333万6千[[メキシコドル|ドル]]<ref>1メキシコドル=0.75両。一両の価値は[http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J029.htm 一文と一両の価値]参照。</ref>に上った。<!--その上満足に操舵できる人材も少なく、他国の交渉材料になっていなかった。-->小栗は、駐日フランス公使[[レオン・ロッシュ]]の通訳[[メルメ・カション]]と親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、[[海軍工廠|製鉄所]]についての具体的な提案を練り上げた。当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたが、当時アメリカは[[南北戦争]]で国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため、結果的にロッシュとの繋がりができたフランス中心の招聘となった。 文久3年︵[[1863年]]︶、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、14代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]はこれを承認し、<!--小栗はそれまでの手腕によって[[徳川慶喜]]の絶大なる信頼をうけており、反対派は沈黙。-->11月26日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国[[甘楽郡]][[中小坂村]]︵現在の群馬県甘楽郡[[下仁田町]]中小坂︶で[[中小坂鉄山]]採掘施設の建設を計画し、[[武田斐三郎]]などを現地の見分に派遣した。見分の結果、[[鉄鉱石]]の[[可採埋蔵量|埋蔵量]]は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した<ref>大松、109頁</ref>。ただし、近隣での[[石炭]]供給が不十分であるので、しばらくの間[[木炭]]を使った[[高炉]]を建設すべしとの報告を受けている。また[[慶応]]元年︵[[1865年]]︶には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。 74行目:
文久2年︵1862年︶12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで[[韮山代官所|韮山代官]][[江川英武]]に任されていた[[関口製造所|湯島大小砲鋳立場]]を幕府直轄として[[関口製造所]]に統合し、組織の合理化や当時多発していた[[不良品|製造不良]]の低減に着手した。これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の[[手代]]の代わりに武田斐三郎、[[友平栄]]などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用した<ref>大松 69-82頁</ref>。また、[[ベルギー]]から弾薬火薬製造機械を購入し、[[滝野川反射炉]]の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した<ref>武田 127-129頁</ref>。 小栗は更なる軍事力強化のため、[[幕府陸軍]]を[[フランス軍]]人に指導させることを計画する。[[慶応]]2年12月8日︵[[1867年]]1月12日︶、[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]が到着、翌日から訓練が開始された。また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、[[シャスポー銃]]10,000丁を含む[[後装式|後装]]小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上った<ref>石井 増訂 明治維新の国際的環境 710-713頁 洞410-412頁</ref>。 経済面では、慶応2年︵[[1866年]]︶には[[関税]]率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、[[三都]]商人と結んで日本全国の[[商品流通]]を掌握しようとした<ref>海を越えた日本人名辞典 197頁</ref>。これが後の商社設立に繋がることとなる。翌慶応3年︵[[1867年]]︶、[[株式会社]]﹁兵庫商社﹂の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるものであった。100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものであった<ref>坂本 413-425頁など</ref>。 95行目:
== 残された家族 ==
小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子︵よきこ、父・忠高の義弟[[日下数馬]]の娘︶を養女にし、その許婚として[[駒井朝温]]の次男の忠道を養子に迎えていたが、忠道も翌日に高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、夫人の道子、養女の鉞子を家臣及び村民からなる従者と共に、かねてから面識があった[[会津藩]]の[[横山常守]]を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、[[善光寺]]参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった<ref>村上、190-206頁</ref>。その後、一行は[[新潟市|新潟]]を経て閏4月29日には会津に到着し、[[松平容保]]の計らいにより夫人らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された<ref>村上、209頁</ref>。
一行は翌明治2年︵[[1869年]]︶春まで会津に留まり、[[東京]]へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは、かつての小栗家の[[武家奉公人|奉公人]]であり、小栗に恩義を感じている[[三野村利左衛門]]であった。三野村は[[日本橋浜町]]の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年︵[[1877年]]︶に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた<ref>村松、富田、246-248頁</ref><ref>村上、211、218-219頁</ref>。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年︵[[1885年]]︶に道子が没すると、国子は親族である[[大隈重信]]に引き取られた。大隈の勧めにより[[矢野龍渓]]の弟・[[小栗貞雄|貞雄]]を婿に迎え、小栗家を再興した<ref>[http://kingendaikeizu.net/oguritadamasa.htm]、[http://tozenzi.cside.com/aizu.htm]</ref>。 == 人物 ==
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* 小栗は鉄砲や[[弓 (武器)|弓]]の名手でもあり、[[砲術]]及び[[弓術]]上覧にて、それぞれ皆中し、[[徳川家慶]]から褒美を賜っている<ref>村上 266頁。</ref>。また、小栗所用と伝わる文久2年︵1861年︶8月制作の︽本小札五枚胴紺絲威具足︾が、[[東京富士美術館]]に所蔵されている<ref>[http://www.fujibi.or.jp/our-collection/search-of-collected-works/search-by-artist/search-result-by-artist.html?artist_id=A194 東京富士美術館公式サイト収蔵品]。</ref>。 * 小栗が窪田助太郎清音から[[山鹿流]][[兵学]]を学んでいた同じ時期に、名刀工・[[源清麿]]が窪田家の屋敷に住み込みで修業していた。小栗の製鉄所建設の原点は、清麿の作刀を10代から20代の多感な時期に生で見て、鉄の基礎知識を得たことだったのではとの新説が、小栗上野介顕彰会の機関誌に発表された。小栗の﹁幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない。﹂との発言は、皇統を尊重する思想と武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのもので小栗に与えた影響は大きいと分析している<ref>上毛新聞2017年︵平成29年︶12月13日社会面﹁幕臣小栗上野介に新説 山鹿流兵学から影響﹂</ref><ref>[http://tozenzi.cside.com/tatunami.html 小栗上野介顕彰会機関誌たつなみ第42号︵平成29年・2017︶窪田清音の学問と門弟小栗上野介の行動]</ref>。 == 家族・親族 ==
*妻:[[建部政醇]]の娘・道子
*養女:[[小栗鉞子]](よきこ、父・忠高の義弟日下数馬の娘で従妹にあたる)
*養子:[[小栗忠道]](鉞子の許嫁)
*娘:[[小栗国子|国子]]([[小栗貞雄]]妻)
*従姉妹:[[大隈綾子]]…[[大隈重信]]夫人
*遠戚:[[武蔵 (格闘家)|武蔵]]…格闘家。小栗の妻、道子と[[蜷川新]](武蔵の曽祖父)の母、はつ子が姉妹。武蔵の父は今でも無実の罪で小栗を処刑した[[勝海舟]]を憎んでいるという。▼
== 評価 ==
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*[[村上泰賢]] 『小栗上野介』[[平凡社新書]] 2010年 ISBN 978-4582855616
*[[木立順一]] 『日本偉人伝』メディアポート 2014年 ISBN 978-4865580150
===テレビ番組 ===▼
* [[ライバル日本史]]([[日本放送協会|NHK]]、1995年12月21日放送)▼
* [[その時歴史が動いた]](NHK、2002年11月20日放送)▼
* [[英雄たちの選択]](NHK、2019年9月25日放送)▼
== 小栗忠順が登場する作品 ==
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* [[ハロー張りネズミ]]「眠る埋蔵金編」([[弘兼憲史]]、講談社、『[[週刊ヤングマガジン]]』連載)
* [[風雲児たち]] 幕末編([[みなもと太郎]]、リイド社、『[[コミック乱]]』、連載)
▲===テレビ番組 ===
▲* [[ライバル日本史]]([[日本放送協会|NHK]]、1995年12月21日放送)
▲* [[その時歴史が動いた]](NHK、2002年11月20日放送)
▲* [[英雄たちの選択]](NHK、2019年9月25日放送)
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
{{commonscat|Oguri Tadamasa}}
*[[浅田宗伯]]
*[[浅野氏祐]]
▲*[[小栗かずまた]] - [[続柄#玄孫|玄孫]]で[[漫画家]]。
▲*[[小栗忠政]] - 先祖
*[[織田泉之]]
*[[小野友五郎]]
*[[古賀謹一郎]]
*[[川勝広道]]
*[[鈴木重嶺]]
*[[高井鴻山]]
*[[滝川具挙]] - 隣人
*[[田辺太一]] - 外国奉行時代の部下。著書で小栗について証言している。
*[[中野梧一]]
*[[シャルル・シャノワーヌ]]
*[[幕末の通貨問題]]
*[[横須賀海軍施設ドック]]
*[[ソシエテ・ジェネラル]]
*[[五品江戸廻送令]]
*[[改税約書]]
*[[横須賀市]]
*[[三井財閥]]
*[[清水建設]]
*[[フランス軍事顧問団 (1867-1868)]]
*[[慶応の改革]]
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