「小栗忠順」の版間の差分
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'''小栗 忠順'''︵おぐり ただまさ、[[文政]]10年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]︿[[1827年]][[7月16日]]﹀ - [[慶応]]4年[[閏]][[4月6日 (旧暦)|4月6日]]︿[[1868年]][[5月27日]]﹀︶は、[[幕末|幕末期]]の[[日本]]の[[武士]]︵[[幕臣]]︶。 [[仮名 (通称)|通称]]は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗った。[[安政]]6年︵[[1859年]]︶、[[従五位|従五位下]]・豊後守に叙任<ref>小川 696頁</ref>。[[文久]]3年︵[[1863年]]︶、 == 主な業績・人物 ==
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=== 最期 ===
慶応4年︵1868年︶閏4月4日、小栗は[[東山道]]軍の命を受けた軍監[[豊永貫一郎]]、[[原保太郎]]に率いられた[[高崎藩]]・[[安中藩]]・[[吉井藩]]兵により[[東善寺 (高崎市)|東善寺]]にいるところを捕縛され、閏4月6日朝4ツ半︵午前11時︶、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原︵現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先︶に家臣の[[荒川祐蔵]]・[[大井磯十郎]]・[[渡辺太三郎]]と共に引き出され、斬首された{{efn|なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年︵1868年︶閏4月の日記に﹁小栗上野介如何様之儀有候哉﹂と記している<ref>片山 121頁</ref>。}}{{efn|小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある<ref>山田 184頁</ref><ref>畠山 247-248頁</ref>。}}。 死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は﹁お静かに﹂と言い放ち、﹁もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう﹂と諭した。そして原が、﹁何か言い残すことはないか﹂と聞くと小栗はにっこり笑い、﹁私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい﹂と頼んだという。処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったという<ref>[http://saint-just.seesaa.net/article/35466291.html ﹁小栗上野介、殺害直後の古文書発見﹂2007年3月~東京新聞]</ref>。原は後に、﹁小栗は自分が斬った﹂といっていたが、地元の研究者によれば、安中藩の[[徒目付]][[浅田五郎作]]が斬ったという説もある。 |