「小金井良精」の版間の差分
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[[越後長岡藩]]士で[[家老]][[河井継之助]]に信任を得て[[郡奉行]]などの長岡藩要職を歴任した[[小金井儀兵衛]]の次男として、[[越後国]][[古志郡]]長岡︵現[[新潟県]][[長岡市]]︶の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行[[小林又兵衛]]の長女幸子。長兄は[[自由民権運動]]家で[[衆議院議員]]を務めた[[小金井権三郎]]。母幸子の兄[[小林虎三郎]]は、[[吉田松陰]]と並び[[佐久間象山]]門下の二虎と称された。<ref>﹁近代日本の科学者 第三巻 小金井良精﹂1.血縁関係 5-6頁︵人文閣 昭和16年-17年︶</ref> [[1870年]]︵[[明治]]3年︶[[10月]][[大学南校]]を経て、[[1872年]]︵明治5年︶10月第一大学区医学校︵[[東京帝国大学|東京大学]][[医学部]]の前身︶に入学、[[1880年]]︵明治13年︶[[7月]]に[[東京医学校]]︵同年[[5月]]第一大学区医学校から改称︶を卒業した。卒業前の5月より東京医学校雇医員に採用され、同校外科学教室の助手として同教室シュルツ博士より[[解剖学]]の手解きを受け、その後同年[[11月]]に日本より[[ドイツ]]へ留学した。[[1881年]]︵明治14年︶[[1月]][[ベルリン大学]]、翌年[[3月]]留学期間を通じて師事したワルダイヤー教授の下で[[1885年]]︵明治18年︶[[6月]]に帰国する迄解剖学と[[組織学]]の研究を続けた。この間[[1884年]]︵明治17年︶﹁網膜の発生に関する論文﹂、翌年﹁人類及び脊椎動物の虹彩に関する論文﹂を発表、[[1883年]]︵明治16年︶にはワルダイヤーに認められベルリン大学の助手に採用された。帰国後[[9月11日]]より当時の解剖学教授であったヂッセに替わり、解剖学講義を行った。翌[[ [[1888年]]︵明治21年︶に[[坪井正五郎]]と、その翌年の夏には妻・[[小金井喜美子]]と、[[北海道]]で[[アイヌ]]の墓地から166の頭骨と副葬品を持ち去り<ref>[http://hmjk.world.coocan.jp/symposium/sympo2011/program.pdf さまよえる遺骨たち アイヌ墓地発掘の現在] - 北大開示文書研究会 2011年6月10日</ref>、その骨格を調査して以来、[[人類学]]を専攻。アイヌ研究に基づいて、日本[[石器時代]]人はアイヌであるとし、[[坪井正五郎]]の唱えたコロボックル説を激しく批判した︵[[コロポックル#コロボックル論争|コロボックル論争]]︶。また、アイヌと日本石器時代人の研究過程で上顎と下顎の位置が現代人と異なる事に気づき﹁人間の咬合についての論文﹂を発表した。小金井の研究姿勢は﹁日本民族の人類学上の問題に専ら心を潜めて来ておられるけれども、その立場は飽くまでも解剖学者として立っておられた﹂と評され、あくまでも一解剖学者としての論理を貫いた。その後[[1893年]]︵明治26年︶から[[1896年]]︵明治29年︶には[[帝国大学]]医科大学学長を務め、1893年に[[日本解剖学会]]を創設した。[[1902年]]︵明治35年︶[[東京学士会院]]会員。[[1921年]]︵[[大正]]10年︶に定年を迎え、その後は教授職を退いていたが精力的に研究活動を続けた。 |