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'''尹良親王'''︵ゆきよししんのう/これなが―/ただなが―、[[正平 (日本)|正平]]19年/[[貞治]]3年︵[[1364年]]︶<ref>﹃[[南朝編年記略]]﹄・﹃[[南朝公卿補任]]﹄記載の年齢から逆算。ただし、﹃氷室系譜﹄などは ==
尹良親王の名は信用すべき同時代史料に見えないばかりか、まとまった伝記である『[[浪合記]]』・『[[信濃宮伝]]』も内容に矛盾や時代錯誤が多く、[[近世]]前期成立の[[偽書]]と推定されていることから、学界では机上の創作とされている。
この尹良親王についての伝説は、足利直義が知久祐超の娘あるいは妹を妾とし産んだ「之義」の伝説が元にあるとされる<ref name="#1"/>。しかし、『[[続本朝通鑑]]』に引用されている『[[信濃郷談]]』によれば、足利之義の伝説は信用に足らず、「則之良蓋宗良子乎(之良=之義は宗良親王の子か)」としているため、厳密には、初めに宗良親王の子の伝承があり、それと『[[鎌倉大草紙]]』に記される「[[弘和]]年間に浪合で戦死した南朝某宮」が[[知久氏]]によって足利之義の伝承へと変化(この場合之義の戦死は[[応永]]3年[[3月24日 (旧暦)|3月24日]]([[1396年]][[5月2日]])とされる)し、最終的に尹良親王伝説になったと考えられる<ref name="#1"/>。『[[寛政重修諸家譜]]』には「『[[寛永諸家系図伝]]』には祐超は[[足利将軍家|室町将軍]]から錦の母衣を賜ったとあるが、今の呈譜には[[南朝]]の尹良親王から賜ったとある」とあり、祐超の娘は之義の母とある<ref>『寛政重修諸家譜[https://dl.ndl.go.jp/pid/1082719/1/476]」</ref>。
== 伝説の概要 ==
『[[浪合記]]』『[[信濃宮伝]]』の間では年紀などに少なからず異同が見られるが、『[[南朝編年記略]]』などを援用しつつまとめると、およそ以下のとおりになる。
[[遠江国|遠江]]井伊谷の館で生まれる。初め[[上野国|上野]]に移ったが、[[天授 (日本)|天授]]5年/[[康暦]]元年︵[[1379年]]︶[[吉野]]に参候し、[[親王宣下]]を蒙って[[二品]]に叙される。後に[[兵部卿]]を経て、[[元中]]3年/至徳3年︵[[1386年]]︶[[8月8日 (旧暦)|8月8日]][[源氏|源姓]]を賜って[[臣籍]]に下り、同時に[[正二位]][[権中納言]]に叙任され、[[左近衛大将]]・[[征夷大将軍]]を兼ねた。元中9年/[[明徳]]3年︵[[1392年]]︶[[南北朝合一]]後もなお吉野に隠れ留まる。[[応永]]4年︵[[1397年]]︶2月[[伊勢国|伊勢]]を発して[[駿河国|駿河]]宇津野︵[[静岡県]][[富士宮市]]︶へ移り、田貫左京亮の家に入った。同5年︵[[1398年]]︶春に宇津野を出て上野へ向かうが、[[鎌倉府|鎌倉]]の軍勢から攻められたために柏坂︵[[中道往還#右左口峠|迦葉坂]]か︶でこれを防戦。[[武田信長]]の館に入って数日逗留した後、8月上野[[寺尾城 (上野国)|寺尾城]]︵[[群馬県]][[高崎市]]︶に赴いた<ref>﹃信濃宮伝﹄には、柏坂の合戦の件は見えず、寺尾城入御を応永7年︵[[1400年]]︶1月のことと記す。</ref>。同10年︵[[1403年]]︶頼みとしていた新田義隆︵[[脇屋義則|義則]]か︶が[[底倉温泉|底倉]]で害されると、[[世良田有親]]ら 釜澤の宇佐八幡社には尹良親王をはじめ[[洞院実世]]、[[園基隆]]、[[藤原光資]]、[[堀川光継]]、宇佐美殿、桐羽殿の6人が祀られており、この6人は尹良親王の随臣とされる。 == 墓所 ==
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なお、陪塚は「千人塚」と呼ばれ、世良田義秋・羽河景庸など、親王に殉じて討死した者らを葬った所と伝えられる。
==
=== 岐阜県恵那市笠置町毛呂窪の伝説 ===
[[岐阜県]] === 岐阜県中津川市高山の伝説 ===
岐阜県の[[中津川市]]高山の伝説では、宮方の将士等は尹良親王を擁して[[中山道]]西古道を[[中野方村]]まで来て一時滞在し、[[笠置神社(恵那市)]]で朝敵退散を祈り英気を養った。しかし敵勢が攻め寄せて来たため木曽路へ向かおうと、[[蛭川村]]を経て高山村の関屋にて戦いを交えた。宮方の従士等は奮戦したものの敵わず、宮は妃を大圓坊に留めて御子良王とも別れて従士等と共にひたすら東へ落ち延びて[[福岡町 (岐阜県)|福岡村]]から山を越えて[[坂下町 (岐阜県)|坂下村]]へ至り矢淵の戦いとなった。従士の今峯何某が討死し、千葉・糸川・逸見・竹腰等は宮を奉じて[[川上村 (長野県)|川上村]]の山中に入った。宮はここで自刃し四勇士は四散して再挙を約束し千葉は川上村に、竹腰は上野村に、糸川は宮の首を奉じて高山村に至り殿垣戸という森林の中に埋め、逸見は毛呂窪村に潜伏した。この後、妃は敵に大圓坊を襲撃されて殿垣戸の森の中にいたり自決した。御子良王は従士に護られ若山という姪のもとに隠れた。今も殿垣戸に殿塚と姫塚がある。遺臣の糸川隼人が宮ならびに妃を葬り冥福を祈ったと伝えられる。また逸見も毛呂窪村に五輪塔を建てて宮の菩提を弔ったという。やがて遺臣達は姪のふところの幼主に仕え傍らに農耕に従事し付近を開拓して、法泉寺を建てたという。姪の住んでいた地を御所平と言い、館址も伝わっている。 === 岐阜県中津川市蛭川の伝説 ===
岐阜県中津川市蛭川には、親王塚石櫃・寺屋敷・輪塔などの遺蹟があり就中親王塚は某親王がここに薨去したため葬られたと伝わる。また笠置町河合の雀明神は、姫君の小袖を祀ったと伝えられている。
== 系譜 ==
* 父:[[宗良親王]](1311-1385?)
* 母:
* 兄弟姉妹:
* 室:[[世良田政義]]女
** 男子:[[
** 男子:氷室良新 - [[津島神社]][[社家]][[氷室氏|氷室家]]の祖
** 男子:崎之宮 - 浪合合戦の後、三河国額田もしくは足助にて、幼くして病死する。
** 女子:[[蜂須賀正秋]]室?
== ユキヨシ様 ==
もっとも、[[延宝]]から[[正徳 (日本)|正徳]]頃までの浪合神社の[[棟札]]には、[[祭神]]を行義権現と記しているものがあるため、﹁ユキヨシ様﹂信仰は一元的ではないことがわかる。 ▲この﹁ユキヨシ様﹂信仰に関して、[[民俗学]]の側面から着目したのが[[柳田國男]]であった。柳田は﹁東国古道記﹂の中で、およそ次のように述べている。﹁かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は[[秋葉街道]]だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道︵[[飯田街道]]︶が開けてきて、その段階で[[津島神社]]の[[御師]]たちが入り込み、土着的な山路の神﹃ユキヨシ様﹄を旅人の道中安全を守る守護神︵一種の[[道祖神]]︶へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する[[御霊信仰]]の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や[[三河武士]]・[[徳川氏]]の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか﹂。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上では示唆するところが多く、特に[[津島信仰]]の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。﹁ユキヨシ様﹂は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。 == 脚注 ==
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* [[大龍寺 (津島市)]] - 親王の[[菩提寺]]として子の良王が建立した伝えられる
* [[後醍醐源氏]]
* [[高根城 (
* [[清原業忠]]
* [[富岡鉄斎]] - 尹良親王伝説の信奉者であり、浪合神社の復興にも寄与した
== 外部リンク ==
* [http://www.vill.toyone.aichi.jp/
* [http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm 宝賀寿男 「南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王」(古樹紀之房間)]
* [http://digikura.pref.nagano.lg.jp/kura/id/02MP0101802734-jp 「尹良親王陵墓略図」] - 信州デジくら
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{{征夷大将軍}}
{{DEFAULTSORT:ゆきよししんのう}}
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