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'''山岡 萬之助'''︵やまおか まんのすけ、[[明治]]9年 == 経歴 ==
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明治43年︵[[1910年]]︶、東京地方裁判所[[検事]]・[[東京高等裁判所|東京控訴院]]検事。さらに日本大学[[教授]]︵刑事政策学・[[刑法]]担当︶に就任する。[[大正]]2年︵[[1913年]]︶に日本大学学監、大正3年︵[[1914年]]︶には[[司法省 (日本)|司法省]][[参事官]]にそれぞれ就任。 日本大学では大正5年︵[[1916年]]︶に理事に就任し、翌大正6年︵[[1917年]]︶宗教科を設置。大正8年︵[[1919年]]︶には日本大学 一方官吏としても、[[大正]]9年︵[[1920年]]︶に司法省[[大臣官房]]保護課長、大正10年 ︵[[1921年]]︶に司法省審査委員、同省[[監獄局]]長︵後の行刑局長︶となり、大正14年︵1925年︶には[[小川平吉]][[法務大臣|司法大臣]]の下で[[治安維持法]]の原案作成にあたった。[[昭和]]2年︵[[1927年]]︶には[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]]長となり、[[三・一五事件]]で検挙の元締めをつとめるなど、赤狩りの権威と評された<ref>﹃長野県百科事典﹄ 810頁</ref>。昭和4年︵[[1929年]]︶には[[貴族院 (日本)#勅選議員|貴族院勅選議員]]となり、昭和6年︵[[1931年]]︶には[[東京弁護士会]]会長に就任。昭和7年︵[[1932年]]︶、[[関東長官]]を最後に退官。昭和9年︵[[1934年]]︶、[[瑞宝大綬章|勲一等瑞宝章]]を受ける。同年日満法曹協会会長に就任。昭和15年︵[[1941年]]︶、[[大日本興亜同盟]]理事長。 49行目:
戦後は貴族院議員を辞職し<ref name=kizokuyame/>、次いで[[公職追放]]となり<ref>﹃朝日新聞﹄1946年2月28日一面</ref>、昭和21年︵[[1946年]]︶に日本大学総長・総裁を辞任するが<ref>﹃日本大学百年史﹄ 第三巻、37頁</ref>、昭和26年︵[[1951年]]︶追放解除<ref>﹃朝日新聞﹄1951年8月7日二面</ref>。昭和27年︵[[1952年]]︶に日本大学名誉総長となる。 昭和31年︵[[1956年]]︶7月の[[第4回参議院議員通常選挙]]に[[全国区制|全国区]]で[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]から立候補するも落選した<ref>﹃国政選挙総覧‥1947-2016﹄546頁。</ref>。昭和43年︵[[1968年]]︶死去、[[従三位]]を追贈された。墓所は文京区[[護国寺]]。 == 主著
* 『刑法原理』日本大学、大正元年、1912年。
* 『刑事政策学』日本大学、大正3年、1914年。
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* 『宇宙の大理』昭和26年、1951年。
* 『新教』新教研究所昭和31年、1956年。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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{{Commonscat|Mannosuke Yamaoka}}
*[https://www.nihon-u.ac.jp/history/successive/president_04.php 第3代総長 山岡 萬之助 | 日本大学の歴史]
*[https://
*[https://
{{
{{関東州の長官|関東長官:1932年}}
{{警察庁長官||内務省警保局長(1927年 -
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:やまおか まんのすけ}}
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[[Category:20世紀日本の哲学者]]
[[Category:戦前日本の司法官僚]]
[[Category:日本の内務官僚]]
[[Category:内務省警保局長]]
[[Category:日本の裁判官]]
[[Category:日本の検察官]]
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