「山田吉利」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
14行目:
[[1872年]]の[[壬申戸籍]]編成に際して吉利は隠居のままに一家を新たに興し、販売禁止の製薬﹁山田丸﹂のみを吉利の家へと分け、山田家本家から﹁山田丸﹂を分離させた。なお、麹町区の﹁除籍簿﹂︵58号︶には﹁平民﹂とある。 吉利の墓は[[勝興寺 (新宿区)|勝興寺]]︵[[新宿区]][[須賀町 (新宿区)|須賀町]]8番地︶と[[正源寺]]︵[[港区 (東京都)|港区]][[白金 (東京都港区)|白金]]2丁目7番19号︶とにある。これは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、屍は正源寺としたためである。正源寺は実家の後藤家の菩提寺であった。 勝興寺の墓誌には「明治十七年十二月二十九日、天寿院慶心和水居士、第七世山田朝右衛門吉年、行年七十有二歳」とある。
|