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{{出典の明記|date=2023年1月9日 (月) 04:40 (UTC)}}
'''山田嘉吉'''(やまだ かきち 1865年 ([[慶応]]元年) - 1934年 ([[昭和]]9年)<ref name="yamad">[https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%98%89%E5%90%89-1117771 デジタル版 日本人名大辞典+Plus 山田嘉吉 やまだ-かきち] [[コトバンク]]</ref>)は、日本の[[英語教育者]]、[[言語学者]]、[[社会学者]]。女性の権限について[[平塚らいてう]]らと共に[[与謝野晶子]]、[[山川菊栄]]らと[[母性保護論争]]をした[[山田わか]]は妻。
1885年(明治18年)に渡米し、のちに[[サンフランシスコ]]で英学塾を開いた。現地で騙され[[娼婦]]として身を沈めた後、苦界から逃れキリスト教救済施設にいた''わか''に教え、のちに結婚。1906年(明治39年)に帰国し私塾を開き、塾生に[[大杉栄]]らがいた<ref name="yamad" />。
山田わか(女性の権限について与謝野晶子、平塚らいてうらと母性保護論争の場で話をした女性)の配偶者。夫妻ともに女性問題に対し情熱を注いだ。わかに対して、ときに叱り、アドバイスし、常に寄り添ってきた。わかに対して、﹁あなたは其の熱情を効果あるやうに用ゆるために……智識をあつめなさい。学問なさい﹂︵﹁青鞜﹂1916年1月号﹃自分と周囲﹄︶と伝えたこともあったという。▼ ▲ == 脚注 ==
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{{DEFAULTSORT:やまた かきち}}
[[category:日本の言語学者]]
[[Category:日本の社会学者]]
[[Category:1865年生]]
[[Category:1939年没]]
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