岡っ引
呼称
歴史
起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った﹁放免﹂である。武士は市中の落伍者・渡世人の生活環境・犯罪実態について不分明なため、捜査の必要上、犯罪者の一部を体制側に取り込み情報収集のため使役する必要があった。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた落伍者・犯罪者の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ捜査自体が困難だったのである。必然的に博徒、的屋などのやくざ者や、親分と呼ばれる地域の顔役が岡っ引になることが多く、両立しえない仕事を兼ねる﹁二足のわらじ﹂の語源となった。奉行所の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為で金を強請る者も多く、たびたび岡っ引の使用を禁止する御触れが出た。
業務
江戸の場合
南町・北町奉行所には与力が各25騎[3]、同心が各100人配置されていたが、警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30人にも満たず、人口100万人にも達した江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引を雇っていた。岡っ引が約500人、下っ引を含めて3000人ぐらいいたという。
奉行所の正規の構成員ではなく、俸給も任命もなかったが、同心から手札︵小遣い︶を得ていた。同心の屋敷には岡っ引のための食事や間食の用意が常に整えてあり、いつでもそこで食事ができたようである。ただし、岡っ引を専業として生計を立てた事例は無く[4]、女房に小間物屋や汁粉屋をやらせるなど家業を持った。
﹃半七捕物帳﹄や﹃銭形平次﹄等の時代劇において、岡っ引は常に十手を預かっているかのように描かれているが、実際は奉行所からの要請に基づき事件の度に奉行所に十手を取りに行ったとされている。十手を携帯する際も見えるように帯に差すのではなく、懐などに隠し持っていた。また、時代劇で十手に房が付いていることがあるが、房は同心以上に許されるものであって岡っ引の十手には付かない。ましてや紫色の房は要職の者が付けるものであり、岡っ引が付けることはまずあり得ない。
半七捕物帳を嚆矢とする捕物帳の探偵役としても有名であるが、実態とはかなり異なる。推理小説研究家によっては私立探偵と同種と見る人もいる︵藤原宰太郎など︶。
大坂の場合
一般の町民が内密に役人から命じられて犯罪の密告に当たった。江戸とは違い、犯人の捕縛に携わらず、密告専門であった[5]。
地方の場合
岡っ引を扱った作品
脚注
(一)^ 目明しという呼び方は、仕事が密告や密偵的な行為だったことによるとされる。 - 林美一﹃江戸の二十四時間﹄、1989年、河出書房新社、68頁
(二)^ 名和弓雄﹃間違いだらけの時代劇﹄、河出書房新社 P27記述より
(三)^ 与力は馬上が許されたため一騎、二騎と数える。
(四)^ 名和弓雄﹃間違いだらけの時代劇﹄、河出書房新社 P85記述より
(五)^ 林美一﹃江戸の二十四時間﹄、1989年、河出書房新社、287頁
参考文献
- 阿部善雄『目明し金十郎の生涯』中央公論新社〈中公新書〉、1981年1月。ISBN 4121006046。