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| location = [[筑前国]][[博多]]中対馬小路<br/>(現
| deathdate = {{死亡年月日と没年齢|1864|2|8|1911|11|11}}
| deathplace = [[大阪府]][[大阪市]]
| nationality = {{JPN}}
| field = [[芝居]]・[[落語家]]・[[講談|講談師]]
| training = [[慶應義塾]](現
| movement = [[新派]]
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| awards = オフシェー・ド・アカデミー三等勲章
}}
'''川上 音二郎'''︵かわかみ おとじろう、 [[幼名]]は'''川上 音吉'''(かわかみ おときち)。[[上方噺家]]としての[[名跡]]は'''浮世亭 ◯◯'''(うきよてい まるまる)。[[亭号|号]]は'''歎水'''。
== 経歴 ==
[[Image:Sadayakko and Otojiro Kawakami.jpg|thumb|left|250px|川上音二郎(右)、妻・貞奴と]]
=== 生い立ち ===
1864年︵[[文久]]4年︶、[[筑前国]][[博多]]中対馬小路町、現在の[[福岡市]][[博多区]][[対馬小路]]に生まれた。[[福岡藩]]主[[黒田氏]]の[[郷士]]及び[[豪商]]・川上専蔵の子。[[論語]]や[[孟子 (書物)|孟子]]を学び、[[福岡県立福岡高等学校|旧制福岡中学校]]の前身に進学するが、継母と折り合いが悪く、1878年︵明治11年︶、家を飛び出し[[大阪]]へ密航。見つかるが出奔し[[東京都|東京]]へ行った<ref>{{Cite book|和書|author=石村 智|title=地形と歴史から探る福岡|publisher=エムディエヌコーポレーション|date=2020-10-6|page=200|isbn=978-4295200369}}</ref>。 [[無銭飲食]]で追われつつ
[[増上寺]]の小僧をしていた時に、毎朝寺に散歩に来る[[福澤諭吉]]と出会い、[[慶應義塾]]の[[学僕]]︵雑用を手伝いながら勉強する生徒︶・[[書生]]として慶應義塾に学び<ref>[http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa060916.html なにわ人物伝 -光彩を放つ-]川上 音二郎 ―かわかみ おとじろう―</ref>、一時は[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[巡査]]となる。しかし長続きせず、反政府の[[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]の[[壮士]]となったとか、1883年︵明治16年︶には[[立憲帝政党]]員となると言われたが、真偽は不明。︵井上理恵著﹃川上音二郎と貞奴 明治の演劇はじまる﹄社会評論社参照︶旧福岡藩士を中心にした[[玄洋社]]の結成に参加している。 === オッペケペー節 ===
1883年頃から、﹁自由童子﹂と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1883年9月13日、内務省より集会条例第6条違反で1年間政治演説を禁止された<ref>朝野新聞</ref>。[[1885年]]に講談師の鑑札を取得。[[自由民権運動]]の弾圧が激しさを増した1887年︵明治20年︶には﹁改良演劇﹂と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の [[1891年]]︵[[明治]]24年︶、[[泉岳寺]]にある[[赤穂事件の人物一覧|赤穂義士]]の墓が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付をした。同寺は﹁首洗いの井戸﹂を整備した<ref>現地石柵﹁川上音二郎之建立﹂刻字</ref>。 40行目:
川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年︵明治24年︶2月、書生芝居を[[堺市]]の卯の日座で旗揚げ。同年、東京の[[中村座]]で﹁板垣君遭難実記﹂などを上演。東京でもオッペケペー節が大流行した。川上は[[1893年]]1月1日、鳥越座の初日をまえに突然神戸からフランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。 [[1894年]]、郷土の先輩である[[金子堅太郎]]の媒酌で、人気芸者の[[川上貞奴|貞奴]]︵本名‥小山 貞︶と結婚した。[[伊藤博文]]が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたとも。 === 戦争劇・新派劇 ===
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1900年︵明治33年︶には、日本通で知られる[[ロンドン]]の[[アーサー・ディオシー]]の歓迎を受け、彼の友人の舞踏家[[ロイ・フラー]]や女優[[サラ・ベルナール]]に紹介され<ref>{{cite journal|和書|url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1997.1|author=[[長岡祥三]]|title=日本協会の創立者アーサー・ディオシー|journal=英学史研究|volume=1997|issue=29|page=1-12|date=1996|publisher=日本英学史学会|accessdate=2016-3-3}}</ref>、フラーの支援を受けて [[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万博]]で公演し、米国興行に続いて人気を博した。翌年、いったん帰国したあと、再びヨーロッパに渡り、1902年に帰国した。欧米巡業中、1902年︵明治35年︶11月1日に大日本帝国の俳優として初めて勲章を授与される。[[フランス]]大統領[[エミール・ルーベ]]より官邸の[[エリゼ宮殿]]にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章︵現・[[芸術文化勲章]]︶を授与。オフシェー叙勲、外国人に贈られる最高章を授章した。 1903年、日本で初めてのセリフ劇﹃[[オセロ 1908年︵明治41年︶興行師として成功し、現在の大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]]北浜四丁目に洋風の劇場・[[帝国座]]を開場する。同時に帝国女優養成所を創設。また、1910年︵明治43年︶には博多区千代に洋風劇場の﹁博多座﹂︵初代︶を建設している(詳細不明︶。 66 ⟶ 65行目:
== 著作 ==
* {{Cite book |和書 |editor=中村藤吉
* {{Cite book |和書 |title=新作オッペケペーぶし |date=1891-08 |publisher=[[片田長治郎]] |ncid=BB20232495}}
* {{Cite book |和書 |title=新歌オッペケペイぶし |volume=第2号 |date=1891-08 |publisher=澤久治郎 |ncid=BB2023251X}}
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== 演じた人物 ==
* [[なぎら健壱]] - 『[[北村透谷 わが冬の歌]]』
* [[松あきら]] - 1982年、[[宝塚歌劇]][[花組]]公演『[[夜明けの序曲]]』にて。
* [[中村雅俊]] - 1985年、NHK[[大河ドラマ]]『[[春の波涛]]』にて。
* [[愛華みれ]] - 1999年、[[宝塚歌劇]][[花組]]公演『夜明けの序曲』にて。
* [[ユースケ・サンタマリア]] - 2007年上演の舞台『[[恐れを知らぬ川上音二郎一座]]』([[シアタークリエ]]こけら落とし公演)にて。
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* [http://www.i10x.com/planb/sp/murakami/03.html 日本現代舞踊の原点(3) 村上裕徳]
* {{Wayback |url=http://www.chi-bunkei.net/otosada/ |title=川上音二郎・川上貞奴を顕彰する会 |date=20130607143158}}
* [https://hakatanomiryoku.com/mame/川上音二郎%E3%80%80日本で最初の世界的エンターテイナ 川上 音二郎] - 日本で最初の世界的エンターテイナー
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かわかみ おとしろう}}
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[[Category:サイレント映画の俳優]]
[[Category:芸術文化勲章受章者]]
[[Category:
[[Category:明治時代の文化]] <!-- オッペケペー節 -->
[[Category:落語家]]
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