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1935年結婚し、藤沢町[[鵠沼]]に新居を構えた。私生活面では、外見の豪放磊落さとは反対の小心な性格で、勝ち気な妻︵寿子・旧姓萩谷、1902年 - 1992年︶に頭が上らず、かなりいじめられたが、友人たちにはさも楽しそうにそのことを話していたという。人気絶頂のころの[[1942年]]︵昭和17年︶[[1月28日]]、[[敗血症]]のため死去。満38歳没。友人の古川ロッパは舞台出演中に徳山の訃報を聞いて衝撃を受け、弔問であたりはばからず号泣した。墓所は[[常光寺 (藤沢市)|常光寺︵藤沢市︶]]。 == 妻・徳山寿子 ==
妻・寿子は︵[[坂本龍一]]﹃音楽は自由にする﹄新潮社、2009年︶に﹁1902年大阪府生まれ。母は女医。東京女子高等師範学校︵現・お茶の水女子大学︶に入学するが中退し、音楽学校に編入。コップなどを使った創作楽器の演奏で活躍し、﹁徳山寿子のキッチン楽団︵坂本も参加︶﹂はテレビ番組にも出演。高校の校歌の作曲や、童謡の編曲も手がけた。また、﹃モガ﹄の先駆けとしてもメディアに登場している。92年没。﹂とある。国文学者の[[萩谷朴]]は寿子の弟。萩谷﹃ボクの大東亜戦争-心暖かなスマトラの人達、一輜重兵の思い出-﹄ 新潮社、1992年によれば、学生時代、萩谷は落合の徳山邸に下宿していたとある。 息子には、ジャズ・ピアニストの[[徳山陽]]がいる。{{Portal クラシック音楽}}
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