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1925年結婚し、藤沢町[[鵠沼]]に新居を構えた。私生活面では、外見の豪放磊落さとは反対の小心な性格で、勝ち気な妻︵寿子・旧姓萩谷、1902年11月6日-1992年5月18日︶に頭が上らず、かなりいじめられたが、友人たちにはさも楽しそうにそのことを話していたという。 妻・寿子は、戦後、[[NHK放送センター|JOAK]](日本放送協会)のラジオ番組で活躍した。また、寿子の音楽教室の生徒だった[[坂本龍一]]が自叙伝の中で、寿子について、﹁1902年大阪府生まれ。母は女医。東京女子高等師範学校︵現・お茶の水女子大学︶に入学するが中退し、音楽学校に編入。コップなどを使った創作楽器の演奏で活躍し、﹁徳山寿子のキッチン楽団︵坂本も参加︶﹂はテレビ番組にも出演。高校の校歌の作曲や、童謡の編曲も手がけた。また、﹃モガ﹄の先駆けとしてもメディアに登場している。92年没。﹂︵[[坂本龍一]]﹃音楽は自由にする﹄新潮社、2009年.p24︶と注記している。 国文学者の[[萩谷朴]]は寿子の弟。([[萩谷朴]]『ボクの大東亜戦争-心暖かなスマトラの人達、一輜重兵の思い出-』河出書房新社、1992年.p.131)。
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