「慶長出羽合戦」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Category:米沢上杉氏を除去; Category:米沢上杉家を追加 (HotCat使用) |
m編集の要約なし |
||
17行目:
|casualties2 = 1580
|}}
'''慶長出羽合戦'''(けいちょうでわかっせん)は、[[慶長]]5年([[1600年]])[[出羽国]]で行なわれた[[上杉景勝]](西軍)と[[最上義光]]・[[伊達政宗]](東軍)の戦いで、「北の関ヶ原」といわれる。東軍が勝利した。
== 上杉氏と最上氏 ==
[[天正]]12年︵[[1584年]]︶、最上義光は、[[羽州探題]]家としての実力再興を目指し、域内の[[寒河江氏|大江氏]]、[[白鳥長久|白鳥氏]]、[[天童氏]]を破り、[[村山郡|村山]]・[[最上郡|最上]]両郡を勢力下に治めた。[[置賜地方]]は血縁関係のある[[伊達氏]]の支配下にあり、進出できないことから北進し、[[庄内地方]]の制圧を目指した。庄内一円は[[武藤氏]]庶流の[[大宝寺氏]]が有力な国人を支配していたが、義光は積極的に介入し制圧を目指した。また、早くから[[豊臣秀吉]]と同盟関係にあった[[上杉景勝]]は、天正14年︵[[1586年]]︶人質を出して臣従し、[[出羽国]]切り取りの裁可を得た。これらの動きに対し、[[大宝寺義興]]は[[越後国|越後]]の[[本庄繁長]]を頼り [[慶長]]3年︵[[1598年]]︶、[[上杉景勝]]は越後・佐渡2国 この後、直江兼続は、米沢と庄内を結ぶ軍道の建設を秘密裏に進め、約1年で完成する([[朝日軍道]])。
== 発端 ==
{{See also|白石城の戦い}}
豊臣秀吉の死後、慶長5年︵[[1600年]]︶6月に[[会津征伐]]のため出陣していた[[徳川家康]]が、7月24日[[下野国|下野]]小山において[[石田三成]]の挙兵を知って反転西上する。家康は[[南部利直]]・[[秋田実季]]・[[戸沢政盛]]・[[本堂氏]]・[[六郷氏]]・[[赤尾津氏]]・[[滝沢氏]]などを[[山形城|山形]]に集結させ、最上義光を主将として米沢口から会津に侵入するようにしていたという。しかし、東軍諸将を先遣隊として東海道より西へ軍を進め、自身は江戸において東軍諸将の引き留め 9月1日、[[岐阜城]]落城の知らせを受けて、 == 上杉軍出陣 ==
37行目:
上杉軍は、9月12日に畑谷城を包囲する。この城は、最上軍の[[白鷹町|白鷹]]方面最前線基地であるが、城将は[[江口光清]]以下500人ほどに過ぎなかった。義光は江口に撤退を命令していたが、江口以下、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で抵抗する。この時の事を、﹃最上義光物語﹄では、 と、城兵側による抵抗をつぶさに描いている。しかし、兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。▼ ▲と、城兵側による抵抗をつぶさに描いている。しかし兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。 9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道最前線[[上山城]]{{Efn|一説には上山氏の室町期からの居城であり[[山城]]の[[高楯城]]から出撃したともいう。}}に攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・[[里見民部]]であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で戦闘が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が与力として増派した[[草刈志摩]]に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せさせていたためである。背後を襲われた上杉軍は混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を攻める。上杉方は[[木村親盛]]が[[坂弥兵衛]]なる者に討ち取られた他、[[椎名弥七郎]]をはじめとする将兵の多くが討たれた。一方、最上勢も広河原で追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれて討ち死にしている。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。 50 ⟶ 48行目:
== 長谷堂城の戦い ==
[[ファイル:Keicho-Dewa-Gassen1.jpg|thumb|250px|直江兼続隊の想定進路]]
一方、直江兼続は畑谷城を落としたあと、長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。長谷堂城は[[山形盆地]]の西南端にある[[須川]]の支流・[[本沢川]]の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城であった。また、この時点で最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る、最上氏側の拠点となっていた。つまり、長谷堂城が落ちれば上杉軍は後顧の憂いがなくなり、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取り この時、長谷堂城は最上氏の重臣・[[志村光安]]以下1000名が守備し、攻め手は直江兼続率いる上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍︵確実を期すなら10倍とも︶と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持って攻城戦にあたった。9月15日、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は 9月17日、兼続は[[春日元忠]]に命じ、さらに城を攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ち 9月21日には、伊達政宗が派遣した留守政景隊3千の軍勢が[[白石城|白石]]から[[笹谷峠]]を越えて山形城の東方︵小白川︶に着陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東の[[須川]]河岸の沼木に布陣する。また、最上義光も9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣した。ここにおいて一時戦況は膠着するものの、9月29日上杉勢は総攻撃を敢行、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将・[[上泉泰綱]]を討ち取るという戦果を挙げた。 60 ⟶ 58行目:
== 撤退戦 ==
[[ファイル:Keicho-Dewa-Gassen2.jpg|thumb|250px|撤退戦の概略図]]
そしてこの29日に、[[関ヶ原の戦い|関ヶ原]]において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、[[前田利益]]︵ この撤退戦は後世まで語り草になった。最上義光は兼続を﹁上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、︵中略︶誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う﹂と評し、家康も兼続が[[駿府]]を訪れた時﹁あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者﹂とおおいに賞賛したという。 また、最上勢は全戦線で反攻に転じ、10月1日には寒河江・白岩・左沢を回復すると、撤退から取り残された谷地城に籠る[[下秀久]]も11日間の籠城の
<gallery widths="450px" heights="200px" caption="『長谷堂合戦図屏風』 江戸時代中期 戸部正直画">
Battle of Hasedō 02.jpg|(左隻)退却する直江兼続を追撃する最上義光
Battle of Hasedō 01.jpg|(右隻)長谷堂城を攻撃する直江兼続
</gallery>
== 仙北・庄内地方の戦い ==
9月下旬になって、秋田実季は最上義光に対して由利衆とともに上杉領である庄内地方へ攻め込むことを通知していた。これに対して義光は仙北地方の小野寺氏を攻撃するように求める返書を出した。しかし、庄内攻撃は家康の直接の指示を受けたものであった。しかも、義光の返書が着く前に実季は家康に使者を出した上で、兵の方向を仙北地方に変えて小野寺氏の[[大森城 (出羽国)|大森城]]攻撃に踏み切った。結果的に最上領に攻め込んでいた小野寺氏は後退し、11月には同氏の本拠地である[[横手城]]が陥落したものの、最上義光は自分の下知に従わない実季や由利衆を軍令違反とみなして非難し、自分達は家康の命令指揮下にあると考える実季はこれを﹁讒言﹂とみなして反発、両者に確執として残った{{Sfn|阿部|2017|pp=81-87,89}}。 一方、最上軍は降伏した下秀久を先手、義光の嫡男・義康を総大将として庄内地方に進攻すると、[[高舘山|尾浦城]]を攻め落とした。翌慶長6年︵[[1601年]]︶3月、酒田東禅寺城を攻略し、十五里ヶ原の戦い == 戦後 ==
この戦いは、﹁[[奥羽]]における東西合戦﹂と言える。最上軍は少ないながらも善戦したことにより、戦後家康はその功績を賞賛し、義光が切り取った庄内地方の領有権を認めるとともに、佐竹氏との領土交換により[[雄勝郡]]・[[平鹿郡]]に替えて[[由利郡]]を与え、出羽[[山形藩]]は57万石の大藩となった。また、慶長6年︵1601年︶5月11日に家康が参内した際には[[上田合戦|上田城の戦い]]の功労者である[[森忠政]]、関ヶ原の戦い本戦の功労者である[[井伊直政]] 伊達政宗は<!--自力での旧領の回復を目指して南下し7月、上杉領の[[白石城]]を落としたものの、東北諸将の引き上げに伴って白石城を返還することを条件に上杉勢と和睦を結んだ。しかしながら、最上氏からの救援要請に応える形で出羽へ援軍を派遣し、9月25日には刈田郡湯原城の攻略に成功する。-->直江兼続が米沢に帰還すると伊達・信夫に進攻し、福島城主本庄繁長と戦うものの補給線を断たれ、失敗に終わる。戦後、南部領で一揆を扇動した 敗れた上杉景勝は庄内、会津などを没収され、米沢30万石のみを許された。
106 ⟶ 102行目:
[[Category:伊達政宗]]
[[Category:伊達氏|戦けいちようてわ]]
[[Category:直江兼続]]
[[Category:1600年の日本]]
[[Category:1600年の戦闘]]
|