「斯波園女」の版間の差分
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== 来歴 ==
伊勢山田の[[神官]]の家に生まれ、同地の[[医師]]・斯波一有︵別号、渭川︵いせん︶︶に嫁す。[[元禄]]3年︵1690年︶に晩年の[[松尾芭蕉]]の下に入門、俳人としての本格的な活動が始まる。2年後には夫と[[大坂]]に移住している。元禄7年︵1694年︶9月27日、園女は折から大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招いている。芭蕉はそこで﹁白菊の目に立てゝ見る塵もなし﹂と詠んでいるが、この時彼はすでに旅に病んでおり、それから半月と経たないうちに大坂で客死している。師匠を失い、元禄16年︵1703年︶には夫とも死別すると、園女は[[宝永]]2年︵1705年︶にかつての蕉門の筆頭格で今や﹁江戸座﹂と呼ばれる江戸最大の俳諧流派を主催するまでになっていた[[宝井其角]]を頼って江戸へ出、[[眼科学|眼科医]]を家業としながら江戸俳壇の俳人と交流した。しかし大坂時代が園女の俳人としての活躍期であり、当時は雑俳点者としても有力だった。 [[正徳 (日本)|正徳]]年間には[[富岡八幡宮|深川八幡]]に36本の桜の植樹を寄進しているが、これは後々まで﹁歌仙桜﹂として[[江戸っ子]]に親しまれた。享保3年︵1718年︶剃髪し、智鏡尼と号した。 46行目:
[[Category:江戸時代の俳人]]
[[Category:日本の女性俳人]]
[[Category:17世紀日本の俳人]]
[[Category:18世紀日本の俳人]]
[[Category:日本の女性医師]]
[[Category:日本の眼科医]]
[[Category:伊勢国の人物]]
[[Category:1664年生]]
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