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'''斯波 園女'''︵しば そのめ、[[寛文]]4年︵[[1664年]]︶ - [[享保]]11年[[4月20日 (旧暦)|4月20日]]︵[[1726年]][[5月21日]]︶︶は[[江戸時代]]の[[俳人]]。[[伊勢国]] [[宇治山田|山田]]︵現在の[[三重県]] [[伊勢市]]︶出身。度会園女ともいわれる。本名は度会園。度会師貞の娘。 == 来歴 ==
伊勢山田の[[神官]]の家に生まれ、同地の[[医師]]・斯波一有︵別号、渭川︵いせん︶︶に嫁す。[[元禄]]3年︵1690年︶に晩年の[[松尾芭蕉]]の下に入門、俳人としての本格的な活動が始まる。2年後には夫と[[大坂]]に移住している。元禄7年︵1694年︶9月27日、園女は折から大坂を訪れていた芭蕉を自宅に招いている。芭蕉はそこで﹁白菊の目に立てゝ見る塵もなし﹂と詠んでいるが、この時彼はすでに旅に病んでおり、それから半月と経たないうちに大坂で客死している。師匠を失い、元禄16年︵1703年︶には夫とも死別すると、園女は[[宝永]]2年︵1705年︶にかつての蕉門の筆頭格で今や﹁江戸座﹂と呼ばれる江戸最大の俳諧流派を主催するまでになっていた[[宝井其角]]を頼って江戸へ出、[[眼科学|眼科医]]を家業としながら江戸俳壇の俳人と交流した。しかし大坂時代が園女の俳人としての活躍期であり、当時は雑俳点者としても有力だった。 [[正徳 (日本)|正徳]]年間には[[富岡八幡宮|深川八幡]]に36本の桜の植樹を寄進しているが、これは後々まで﹁歌仙桜﹂として[[江戸っ子]]に親しまれた。享保3年︵1718年︶剃髪し、智鏡尼と号した。墓所は[[江東区]]白河の雄松院。 編著に『菊のちり』『鶴の杖』がある。
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