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{{Otheruses|兵庫県神戸市の新開地|沖縄県金武町の新開地|金武町新開地}}
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[[ファイル:Kobe Shinkaichi07n3872.jpg|thumb|250px|BIG MAN(ゲート)]]
'''新開地'''︵しんかいち︶は、[[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]の地域名および[[町丁|町名]]。町名は新開地一丁目から新開地六丁目がある。郵便番号は652-0811。 '''新開地'''︵しんかいち︶は、[[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]南部の地名。[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]の西側に位置する。[[1905年]]、旧[[湊川]]を埋め立てた跡地に自然発生的に生まれた<ref name="shinkaichi">{{Cite web|url=https://shinkaichi.or.jp/history/|title=新開地ファン - 新開地のまちづくり|accessdate=2021-1-15}}</ref>。旧湊東区・兵庫区との区境の役割をはたす。戦前から1960年代にかけては[[映画館]]・[[飲食店]]を中心とした神戸一の[[繁華街]]・オフィス街であり、神戸の中心的市街地であった。その繁栄ぶりは'''﹁東の[[浅草]]、西の新開地﹂'''と謳われるほどであった<ref>{{Cite web|title=JR神戸駅はなぜ神戸市の中心街から外れたところに位置している?|url=https://news.mynavi.jp/article/20140217-kobe/|website=マイナビニュース|date=2014-02-17|accessdate=2021-02-01|language=ja}}</ref>。湊川で生まれ育った映画解説者の[[淀川長治]]は、新開地を﹁神戸文化の噴水﹂と称した<ref name="rekishi">{{Cite web |url=https://shinkaichi.or.jp/history/ |title=新開地のまちづくり |author=新開地まちづくりNPO |publisher=新開地ファン |date= |accessdate=2019-09-22}}</ref>。その後、神戸の中心繁華街は[[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[三宮]]・[[元町 (神戸市)|元町]]エリアに移っていったが、現在でも[[兵庫区]]内の主要な商業地の一つである。▼ == 概要 ==
[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]の西側に位置する。[[湊川 (兵庫県)|湊川]]が現河道に付け替えられた4年後、旧河川敷に新開地本通りが整備された。旧[[湊東区]]・兵庫区︵旧称は湊西区︶の区境の役割をはたしたが、[[1945年]]に旧湊東区西部は兵庫区に編入された。新開地は長らく通称で、町名が起立したのは1 - 2丁目が[[1974年]]、3 - 6丁目が[[1975年]]と後年になってからである。 ▲ [[神戸大空襲]]後、新開地から神戸駅側に[[連合国軍最高司令官総司令部|占領軍]]のウエストキャンプが[[1955年]]まで置かれていたこともあって復興が遅れ、賑わいの中心は[[中央区 (神戸市)|中央区]]の[[元町 (神戸市)|元町]]・[[三宮]]方面へ移った(明治以前に戻った格好でもある)。現在でも兵庫区内の主要な商業地の一つである。
== 歴史 ==
=== 黎明期 ===
[[File:Shinkaichi.jpg|thumb|新開地 手彩色絵葉書]]
[[1901年]] [[1910年]]になると数多くの活動写真館、[[劇場]]、[[寄席]]が次々に誕生し、15軒となった。[[1911年]]の正月三が日には40万人が新開地を訪れた。これは当時の神戸市民が一人一回以上は行っている計算になるほどである。その賑わいは1911年1月7日の[[神戸又新日報]]に﹁湊川新開地が今日の如く西部唯一の遊楽場として殷賑を極むることとなって以来第一年のお正月なので、人の出足は自然ここに集まり、イヤ実際驚くばかりの人出だった﹂と書かれるほどであった<ref>[[#神戸新開地物語|神戸新開地物語(p.29)]]</ref>。新開地は旧湊川河川敷の下流側にあたり、上流側には同年11月に[[湊川公園]]が開園した。 === 大正時代の振興 ===
[[1913年]]9月1日に[[聚楽館]]が誕生する。こけら落としには帝劇専属の女優10人・女優生徒11人が共演した<ref>[[#神戸新開地物語|神戸新開地物語(p.34)]]</ref>。また[[1917年]]8月には神戸の松竹で唯一となる松竹劇場が湊川公園の南にオープンする。 [[村嶋歸之]]の﹁わが新開地﹂には、﹃市電気局のとある課長によると、[[1922年]]には市電新開地聚楽館前で乗降する客だけで1日4万人、また新開地の劇場に入る客だけでも年間400万人に達した﹄とある また、この頃は16000人にも上る[[川崎造船所]]の職工が午前5時と午後3時に[[通勤]]のため新開地を通過しており、村嶋歸之は﹁わが新開地﹂でこれを︵女の行き来を﹁赤き流れ﹂と呼ぶのにたとえて︶﹁青き流れ﹂と称した。かつて川崎造船所で働き戦後は明治時代の風景画を描いた武文彦は﹁まるで日本中の労働者が一度にあふれ出たような光景でした﹂と語っている<ref>[[#神戸新開地物語|神戸新開地物語(p.48)]]</ref>。この﹁青き流れ﹂は[[米騒動]]や川崎・三菱造船所争議でも動くことになる。 [[1924年]]3月4日には[[神戸タワー]]︵新開地タワー︶が誕生する<ref name="hondana60">{{Cite web|和書|title=神戸市‥KOBEの本棚 第60号|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/bunkodayori/hon_60.html|website=神戸市ホームページ|accessdate=2019-10-23|language=ja}}</ref>。 === 昭和時代と戦争 ===
[[神戸市役所]]が隣地に立地し、[[新聞社]]、[[電力会社]]、[[ガス会社]]などの[[ライフライン]]機能が集積し、都市機能が充実した。[[湊川公園]]では、常設の音楽堂などで多くの催しが開催され、神戸市民の憩いの場として、多くの人々に愛された<ref name="shinkaichi">{{Cite web|和書|url=https://shinkaichi.or.jp/history/|title=新開地ファン - 新開地のまちづくり|accessdate=2021-1-15}}</ref>。 [[1928年]](昭和3年)[[湊川駅]]・[[湊川温泉]]開業。ターミナルとして賑わう<ref name="shinkaichi"/>。▼
[[1934年]]
▲[[1928年]][[湊川駅]]・[[湊川温泉]]開業。ターミナルとして賑わう<ref name="shinkaichi"/>。
[[1935年]](昭和10年)[[8月10日]] - [[集中豪雨]]により新開地一帯が浸水。市電線路付近に濁水が溢れて湖と化す<ref>今度は台風が連れてきた豪雨『東京朝日新聞』昭和10年8月11日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p209 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。
▲[[1934年]]1月7日に神戸初のスケートリンクとなる﹁神戸・アイススケート場﹂が開場<ref>[[#神戸新開地物語|神戸新開地物語(p.269)]]</ref>。また同年12月20日には聚楽館にもアイススケート場が開場した<ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/year/syouwa/syouwa_09.html 神戸市文書館 神戸歴史年表]</ref>。[[1935年]]10月にはスポーツランドも開業した<ref>[[#神戸新開地物語|神戸新開地物語(p.272)]]</ref>。 [[1937年]]2月にはマツモトザが新開地初の﹁ニュース映画専門館﹂︵新開地ニュース館︶となる<ref name="noji282">[[新開地#神戸新開地物語|神戸新開地物語(p.282-286)]]</ref>。戦局を伝えるニュース映画は人気を呼び、他館も追随してニュース映画を上映するようになっていく<ref name="noji282" />。神戸瓦斯本社ビル︵建築家・渡辺節氏︶落成。大阪瓦斯新開地ガスビルと名を変えた後も、戦前建築物として2014年の解体まで70年余りに渡り街のシンボルとして親しまれた。 [[1937年]] [[第二次世界大戦|太平洋戦争]]の切迫に伴い、新開地の歓楽街にも営業時間の短縮、[[灯火管制]]、防空演習、英米映画の上映停止、高級興行停止、課税、興行時間制限など様々な影響が及んだ<ref name="noji282"/>。[[1945年 === 高度経済成長と衰退 ===
1945年の[[神戸大空襲]]で新開地は松竹座と聚楽館を残して全焼したが、戦後まもなく娯楽施設が復活。新開地本通りに20以上の映画館が軒を連ねる有数の映画の街として大いに賑わった。しかし、戦後、新開地南部が長く進駐軍に接収されたために復興が遅れることとなる。また、隣接する[[福原 (神戸市)|福原]]の[[遊廓]]が、[[売春防止法]]の施行に伴い消滅する。そして、映画が[[娯楽]]の主役から転落したうえ、1957年に[[神戸市役所|市役所]]が[[三宮]]に移った事により、神戸市の中心も三宮に集約され、1960年代後半になると娯楽の多様化で映画館や演芸場が閉鎖 さらに1968年、地下に[[神戸高速鉄道]]が開業、[[新開地駅]]が誕生すると神戸電気鉄道︵現在の[[神戸電鉄]]︶の始発駅となるが、地下コンコース内で[[阪神電気鉄道|阪神]]・[[山陽電気鉄道|山陽]]・[[阪急電鉄|阪急]]への乗換が完結してしまう構造であるうえに、[[神戸市電]]が廃止されたことで人通りはかえって減少した。これに、1970年半ばに[[神戸港]]沿いの[[川崎重工業]]造船所の縮小で街は寂れる一方となった<ref name="rekishi"/>。 39 ⟶ 49行目:
そして、映画と実演の神戸松竹劇場や[[寄席|演芸場]]の[[神戸松竹座]]などが次々と閉鎖され、代わってパチンコ店が建設されていく。﹁ええとこ﹂と謳われた[[聚楽館]]も閉鎖された。残った映画館もまた成人映画を主体に上映するようになり、顧客誘致のため設けた[[商店街]]のアーケードがかえって暗い雰囲気を醸しだしていた。福原地区とともに風紀が乱れていき労務者が車座で飲酒する風景もあった。このために、﹁神戸一の繁華街﹂から﹁行くのがはばかられる場所﹂と見られて長期にわたって低迷傾向に陥っていた。 [[ファミリーコンピュータ]]のゲームソフト﹁[[ポートピア連続殺人事件]]﹂でも、主人公が実在したストリップ劇場である﹁新劇ゴールド﹂を模倣した﹁新劇シルバー﹂に入るシナリオがある︵この劇場は[[帝国銀行]]であった建物を改装して営業していた。震災により廃業して<ref>{{ {{右|
[[ファイル:Kobe Shinkaichi11s3872.jpg|thumb|none|200px|新開地商店街南入口、ラウンドワン]]
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===阪神淡路大震災と復興===
1980年代以降、新開地の商店主が神戸市の条例に基づくまちづくり団体として﹁新開地周辺地区まちづくり協議会﹂を結成。﹁アート﹂・﹁遊び﹂・﹁都市居住﹂の3本柱を掲げ再生の活動を進めた 復興の兆しが見えて新開地本通りでは[[アーケード (建築物)|アーケード]]を撤去する。震災復興により新しい建物が次々と建てられて外見上は面目を一新する。1978年以降、[[駐車場]]となっていた聚楽館も不動産業の大京と[[ラウンドワン]]の手によってアミューズメントセンターとして2001年に復活した<ref>[https://www.daikyo.co.jp/dev/files/20010418.pdf 神戸市・新開地の街づくり事業 神戸市民が愛した娯楽の殿堂﹁聚楽館﹂の跡地に﹁大京聚楽館ビル﹂︵神戸市兵庫区︶竣工 ﹁ラウンドワン新開地店﹂がオープン]︵PDF) [https://www.daikyo.co.jp/news/index.php?y=2001#yearTitle 大京グループ・ニュースリリース2001年] 2019-10-23閲覧</ref>。また2010年には湊川公園のリニューアルも実現。現在、市民団体を中心として更なる復興とその内容の拡充に取り組んでいる。2018年には、神戸松竹座の閉館以来42年ぶりに寄席︵[[神戸新開地・喜楽館]]︶がオープンした。 56 ⟶ 66行目:
* 1907年(明治40年) - 初の舞台小屋となる「相生座」が開業(1909年に火事で全焼<ref>[[#神戸新開地物語|神戸新開地物語(p:21)]]</ref>)
* 1911年(明治44年) - [[湊川公園]]完成。
* 1913年(大正2年) - 新開地のランドマーク的存在である[[劇場]]、[[聚楽館]](しゅうらくかん)が開業
* 1924年(大正13年) - 新開地のもう一つのランドマークである[[神戸タワー]]が完成<ref name="hondana60"/>。
* 1928年(昭和3年) - [[神戸電鉄]][[湊川駅]]、湊川温泉が開業。
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* [[商店街]] - 新開地商店街(アーケード&モール)、[[湊川商店街]]、湊川パークタウン
* [[地下街]] - [[メトロこうべ]]
* 複合文化施設 - [[新開地アートひろば]](旧神戸アートビレッジセンター
* [[ホール]] - まちづくりスクエア、兵庫公会堂
* [[映画館]] - [[パルシネマしんこうえん]](名画劇場)、Cinema KOBE(名画劇場)
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=
*{{Cite book|和書|author= |translator= |editor= |others= |chapter= |title=神戸新開地物語 |series= |date=1973-12-10 |publisher=のじぎく文庫 |isbn= |pages= |url=|ref=神戸新開地物語}}
*{{Cite book|和書|title=神戸とシネマの一世紀(のじぎく文庫)|date=1998-04|publisher=[[神戸新聞]]総合出版センター |editor=神戸100年映画祭実行委員会・神戸映画サークル協議会
== 外部リンク ==
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{{神戸市の地域}}
{{兵庫区の地名}}
{{DEFAULTSORT:しんかいち}}
[[Category:兵庫区の
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