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'''新開地'''︵しんかいち︶は、[[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]南部の地名。旧湊東区・兵庫区との区境の役割をはたす。戦前から[[昭和]]30年代半ばにおいて神戸の中心的市街地であった。古くからの[[オフィス]]街、[[歓楽街]]であり、現在は[[三宮]]に業務機能が集中しているものの、現在もなおオフィスや店舗の多い地域である。▼ [[ファイル:Kobe Shinkaichi07n3872.jpg|thumb|250px|BIG MAN(ゲート)]]
▲'''新開地'''︵しんかいち︶は、[[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]南部の地名。旧湊東区・兵庫区との区境の役割をはたす。戦前から[[昭和]]30年代半ばに == 概要 ==
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[[1910年]]になると数多くの活動写真館、[[劇場]]、[[寄席]]が次々に誕生し、15軒となった。[[1911年]]の正月三が日には40万人が新開地を訪れた。これは当時の神戸市民が一人一回以上は行っている計算になるほどである。その賑わいは1911年1月7日の[[神戸又新日報]]に﹁湊川新開地が今日の如く西部唯一の遊楽場として殷賑を極むることととなって以来第一年のお正月なので、人の出足は自然ここに集まり、イヤ実際驚くばかりの人出だった﹂と書かれるほどであった<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.29)]]</ref>。 ===
[[1913年]] [[村嶋歸之]]の﹁わが新開地﹂には、﹃市電気局のとある課長によると、[[1922年]]には市電新開地聚楽館前で乗降する客だけで1日4万人、また新開地の劇場に入る客だけでも年間400万人に達した﹄と また、この頃は16000人にも上る[[川崎造船所]]の職工が午前5時と午後3時に[[通勤]]のため新開地を通過しており、村嶋歸之は﹁わが新開地﹂でこれを︵女の行き来を﹁赤き流れ﹂と呼ぶのにたとえて︶﹁青き流れ﹂と称した。かつて川崎造船所で働き戦後は明治時代の風景画を描いた[[武文彦]]は﹁まるで日本中の労働者が一度にあふれ出たような光景でした﹂と語っている<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.48)]]</ref>。この﹁青き流れ﹂は[[米騒動]]や川崎・三菱造船所争議でも動くことになる。 ▲市電気局のとある課長によると、[[1922年]]には市電新開地聚楽館前で乗降する客だけで1日4万人、また新開地の劇場に入る客だけでも年間400万人に達したという<ref>[[#村嶋(1922)|村嶋(1922)]]</ref>。
[[1924年]]3月4日には[[神戸タワー]]が誕生する。
=== 昭和時代と戦争 ===
[[1934年]]1月7日に神戸初のスケートリンクとなる「神戸・アイススケート場」が開場<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.269)]]</ref>。また同年12月20日には聚楽館にもアイススケート場が開場した<ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/year/syouwa/syouwa_09.html 神戸市文書館 神戸歴史年表]</ref>。また[[1937年]]には神戸アイススケート場が夏場の閉鎖期間を利用して「スケート映画館」となった。当時他の映画館でも行っていなかった洋画一本建て興行を行い、同年10月からはスケート場を閉鎖し映画一本としたが、戦争を受け[[1942年]]には日本映画の上映館に変え、名称も「新開地映画館」と改称したが[[1943年]]に閉鎖した<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.275-276)]]</ref>。
[[1935年]]10月にはスポーツランドも開業した。
[[1937年]]2月にはマツモトザが新開地初の「ニュース映画専門館」となる<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.282)]]</ref>。
=== 高度経済成長と衰退 ===
1945年の[[神戸大空襲]]で地区は全焼したが、戦後まもなく娯楽施設が復活。新開地本通りに20以上の映画館が軒を連ねる有数の映画の街として大いに賑わった。しかし、戦後、新開地南部が長く進駐軍に接収されたために復興が遅れることとなる。また、隣接する[[福原 (神戸市)|福原]]の[[遊郭]]が、[[売春防止法]]の施行に伴い消滅する。そして、映画が[[娯楽]]の主役から転落したうえ、1957年に[[神戸市役所|市役所]]が[[三宮]]に移った事により、神戸市の中心も三宮に集約され、1960年代後半になると娯楽の多様化で映画館や演芸場が閉鎖。<ref name="rekishi"/> さらに1968年、地下に[[神戸高速鉄道]]が開業、[[新開地駅]]が誕生すると神戸電気鉄道︵現在の[[神戸電鉄]]︶の始発駅となるが、地下コンコース内で[[阪神電気鉄道|阪神]]・[[山陽電気鉄道|山陽]]・[[阪急電鉄|阪急]]への乗換が完結してしまう構造であるうえに、[[神戸市電]]が廃止されたことで人通りはかえって減少した。これに、1970年半ばに[[神戸港]]沿いの[[川崎重工業]]造船所の縮小で街は寂れる一方となった<ref name="rekishi"/>。 59 ⟶ 65行目:
* 2010年 - 湊川公園がリニューアル<ref name="rekishi"/>。
* 2018年 - 神戸新開地・喜楽館がオープン。立地はかつての神戸松竹座の筋向かい(やや南)。
== 文化 ==
== 施設 ==
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== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[村嶋歸之]]|translator= |editor= |others= |chapter= |title=わが新開地|series= |date= |publisher=
*{{Cite book|和書|author= |translator= |editor= |others= |chapter= |title=神戸新開地物語 |series= |date=1973-12-10 |publisher=のじぎく文庫 |isbn= |pages= |url=|ref=のじぎく}}
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