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'''新開地'''︵しんかいち︶は、[[兵庫県]][[神戸市]][[兵庫区]]南部の地名。旧湊東区・兵庫区との区境の役割をはたす。戦前から[[昭和]]30年代半ばにかけては[[映画館]]・[[飲食店]]を中心とした神戸一の[[繁華街]]・オフィス街であり、神戸の中心的市街地であった。その繁栄ぶりは﹁東の[[浅草]]、西の新開地﹂と謳われるまでであった。湊川で生まれ育った映画解説者の[[淀川長治]]は、新開地を﹁神戸文化の噴水﹂と称した。<ref name="rekishi">{{Cite web |url=https://shinkaichi.or.jp/history/ |title=新開地のまちづくり |author=新開地まちづくりNPO |publisher=新開地ファン |date= |accessdate=2019-09-22}}</ref>現在では[[三宮]]に業務機能が集中しているものの、オフィスや店舗の多い地域である。 <!--== 概要 ==-->
=== 黎明期 ===
[[File:Shinkaichi.jpg|thumb|right|手彩色絵葉書新開地]]
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また、この頃は16000人にも上る[[川崎造船所]]の職工が午前5時と午後3時に[[通勤]]のため新開地を通過しており、村嶋歸之は﹁わが新開地﹂でこれを︵女の行き来を﹁赤き流れ﹂と呼ぶのにたとえて︶﹁青き流れ﹂と称した。かつて川崎造船所で働き戦後は明治時代の風景画を描いた[[武文彦]]は﹁まるで日本中の労働者が一度にあふれ出たような光景でした﹂と語っている<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.48)]]</ref>。この﹁青き流れ﹂は[[米騒動]]や川崎・三菱造船所争議でも動くことになる。 [[1924年]]3月4日には[[神戸タワー]]︵新開地タワー︶が誕生する<ref name="hondana60">{{Cite web|title=神戸市‥KOBEの本棚 第60号|url=http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/bunkodayori/hon_60.html|website=神戸市ホームページ|accessdate=2019-10-23|language=ja}}</ref>。 === 昭和時代と戦争 ===
[[1934年]]1月7日に神戸初のスケートリンクとなる「神戸・アイススケート場」が開場<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.269)]]</ref>。また同年12月20日には聚楽館にもアイススケート場が開場した<ref>[http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/year/syouwa/syouwa_09.html 神戸市文書館 神戸歴史年表]</ref>。
[[1937年]]2月にはマツモトザが新開地初の「ニュース映画専門館」(新開地ニュース館)となる<ref name="noji282">[[新開地#のじぎく|のじぎく(p.282-286)]]</ref>。戦局を伝えるニュース映画は人気を呼び、他館も追随してニュース映画を上映するようになっていく<ref name=":1" />。▼
[[1937年]]5月には神戸アイス・スケート場が夏場の閉鎖期間を利用して「スケート映画館」となった。当時他の映画館でも行っていなかった洋画一本建て興行を行い、同年10月からはスケート場を閉鎖し映画一本としたが、戦争を受け1942年には日本映画の上映館に変え、名称も「新開地映画館」と改称したが1943年に閉鎖した<ref name="noji275">[[[#のじぎく|のじぎく(p.275-276)]]</ref>。
太平洋戦争の切迫に伴い、新開地の歓楽街にも営業時間の短縮、灯火管制、防空演習、英米映画の上映停止、高級興行停止、課税、興行時間制限など様々な影響が及んだ<ref name="noji282"/>。1945年3月の[[神戸大空襲]]により、新開地の大部分が焼失した<ref>http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/bunkodayori/hon_60.html</ref>。
▲[[1937年]]2月にはマツモトザが新開地初の「ニュース映画専門館」となる<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p.282)]]</ref>。
=== 高度経済成長と衰退 ===
1945年の[[神戸大空襲]]で新開地は松竹座と聚楽館を残して全焼したが、戦後まもなく娯楽施設が復活。新開地本通りに20以上の映画館が軒を連ねる有数の映画の街として大いに賑わった。しかし、戦後、新開地南部が長く進駐軍に接収されたために復興が遅れることとなる。また、隣接する[[福原 (神戸市)|福原]]の[[遊郭]]が、[[売春防止法]]の施行に伴い消滅する。そして、映画が[[娯楽]]の主役から転落したうえ、1957年に[[神戸市役所|市役所]]が[[三宮]]に移った事により、神戸市の中心も三宮に集約され、1960年代後半になると娯楽の多様化で映画館や演芸場が閉鎖。<ref name="rekishi"/> 45 ⟶ 51行目:
復興の兆しが見えて新開地本通りでは[[アーケード]]を撤去する。震災復興により新しい建物が次々と建てられて外見上は面目を一新する。1978年以降、[[駐車場]]となっていた聚楽館も不動産業の大京と[[ラウンドワン]]の手によってアミューズメントセンターとして2001年に復活した。また2010年には湊川公園のリニューアルも実現。現在、市民団体を中心として更なる復興とその内容の拡充に取り組んでいる。2018年には、神戸松竹座の閉館以来42年ぶりに寄席︵[[神戸新開地・喜楽館]]︶がオープンした。 ==
* 1905年(明治38年) - [[湊川 (兵庫県)|湊川]]の付け替えに伴う旧河川の削剥・埋め立て工事が完了。街区を形成。
* 1907年(明治40年) - 初の舞台小屋となる「相生座」が開業(1909年に火事で全焼<ref>[[#のじぎく|のじぎく(p:21)]]</ref>)
* 1911年(明治44年) - [[湊川公園]]完成。
* 1913年(大正2年) - 新開地のランドマーク的存在である[[劇場]]、[[聚楽館]](しゅうらくかん)が開業。<ref name="rekishi"/>
* 1924年(大正13年) - 新開地のもう一つのランドマークである[[神戸タワー]]が完成<ref name="hondana60"/>。
* 1928年(昭和3年) - [[神戸電鉄]][[湊川駅]]、湊川温泉が開業。
* 1945年(昭和20年) - [[神戸大空襲]]で甚大な被害を受ける。
* * 1950年(昭和25年) - 神戸博覧会が湊川公園で開催。
* 1957年(昭和32年) - 神戸市役所が三宮地区に移転。
* 1965年(昭和40年) - 新開地交差点にあった神戸市電の停留所(三角公園)を撤去。
* 1968年(昭和43年) - 神戸高速鉄道が開業、[[新開地駅]]開設。神戸タワーを撤去。
* 1976年(昭和51年) - 神戸松竹座が閉鎖。
* 1978年(昭和53年) - 聚楽館が閉鎖。
* 1983年(昭和58年) - 湊川温泉劇場が閉館。
* 1995年(平成7年) - [[阪神・淡路大震災]]で再び大きな被害を受ける。新開地交差点の角に立つ[[三菱銀行]]が崩壊した映像が注目を集めた<ref>その後再建され、[[三菱UFJ銀行]]兵庫支店として営業中。</ref>。同じく震災により、神戸高速鉄道の[[大開駅]]が崩壊。上を走る[[国道28号]]が陥没する。新開地交差点の延長上になる大開駅付近で、しばらく車線規制される。
*1996年(平成8年) - [[神戸アートビレッジセンター]]オープン。 * 2001年
* 2010年(平成22年) - 湊川公園がリニューアル<ref name="rekishi" />。
* 2018年(平成30年) - 神戸新開地・喜楽館がオープン。立地はかつての神戸松竹座の筋向かい(やや南)。
▲== 文化 ==
== 施設 ==
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=== かつてあった施設 ===
* [[神戸タワー]](新開地タワー)
* 湊川温泉
* 映画館 - 湊川温泉劇場、テアトルKS、神戸松竹劇場、[[聚楽館]]、ロマン座、神戸東映劇場、神戸東映パラス、公園劇場、神戸スバル座、菊水キネマクラブ、新劇、神戸東宝、神戸シネマ、神戸名画
* 劇場 - [[神戸松竹座]](演芸)、新劇ゴールド(ストリップ)、神戸第一劇場(ストリップ)
* 三角公園([[神戸市電]]操作場)
* 神戸アイス・スケート場(のちにスケート映画館となる)、スポーツランド([[遊園地]])
== 最寄り駅 ==
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== 外部リンク ==
{{Commons|Category:Shinkaichi}}
* [http://www.shinkaichi.or.jp/ 新開地オモシロ情報サイト 新開地ファン(新開地まちづくりNPOサイト)] {{ja icon}}
{{神戸市の地域}}
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