「日本劇場」の版間の差分
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== 構造 ==
*設計は渡辺仁、施工は大林組、解体は[[竹中工務店]]。地上7階、地下3階建。地下2階は一般客が入ることのできなかったNDTダンサー専用の[[レストラン]]、地下1階は当初[[東京會舘]]のランチルームや、理髪店が入居していた。戦後は映画館﹁丸の内東宝劇場﹂﹁日劇ニュース劇場︵後に[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]]専門館﹁日劇文化劇場﹂に改称︶﹂と居酒屋などが入居。1階は正面玄関と4階までの大劇場、2階有楽町側には内外どちらからも入れた喫茶﹁らせん﹂。4階は稽古場、2台の映写機が置かれた映写室、照明室、パブレストラン﹁チボリ﹂、[[明治 *地階は劇場内部からも行けたが、1階正面玄関の外側にも地階へ行く階段があった。
*客席は3階席まであり、1階1060席、2階540席、3階463席の計2063席。両壁際にはロイヤルボックスと呼ばれたボックス席が10個︵2階6個、3階4個︶あり、2階席前3列とともに日劇唯一の指定席となっていた。立ち見の客を最大限入れた状態で﹁4000人劇場﹂と呼んだ。 *もともと映画館として建設されたため、舞台の奥行きは狭く、[[回り舞台]]も無く、使用していた大階段もかなり急なものとなっていた。わずかな[[迫り]]と[[オーケストラ
*開場当時、劇場内外部は[[ステンドグラス]]、[[大理石]]、さまざまなデザインの[[レリーフ]]などで豪華絢爛に彩られ、人々の目を驚かせたが、昭和35年に大改装。しかし、解体時に長年の改装で覆われた[[ベニヤ板]]を剥がしたところ、正面ホールの壁から[[ギリシャ神話]]をモチーフとした陶器モザイクの壁画が現れた。これは[[川島理一郎]]による作品で﹁[[平和]]﹂﹁[[戦争]]﹂﹁[[舞踊]]﹂﹁[[音楽]]﹂の4テーマに分かれていた。この壁画がベニヤ板で覆われてしまったのは、昭和33年のこと。理由はタイアップ商品をホールで販売する計画があり、背景としてはこの壁画はあまりにも芸術的過ぎて、そぐわないというものであった。こうして23年ぶりに発見され新聞などでも話題となった。記念として有楽町マリオンに残そうという話があったが、壁画は[[モルタル]]で固められているうえに、背後は上層階を支える大柱があったため難工事になると考えられた。そのため保存されることは叶わず、そのまま建物の廃材とともに廃棄となってしまった。 *古い[[設備]]であったこと、あとから無理やり付け足した[[スピーカー]]であったため、[[音響]][[効果]]はあまりよくなかった。
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