「明治25年板垣退助暗殺未遂事件」の版間の差分
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== 概略 ==
[[File:Taisuke_Itagaki_2.jpg|thumb|250px|[[板垣退助]](1886年頃撮影)]]
板垣退助は幕末・文久年間、京都で命を狙われたことを嚆矢とし<ref>﹃維新前夜経歴談﹄(所収﹃維新史料編纂会講演速記録(1)﹄127頁</ref>、中でも[[1882年]]︵明治15年︶[[4月6日]]に起きた板垣暗殺未遂事件︵[[岐阜事件|板垣退助岐阜遭難事件]]︶は、板垣自身の口から発せられた﹁吾死すとも自由は滅びず<ref name="jiyuhashisezu" />﹂の言葉が、新聞報道によって﹁板垣死すとも自由は死せず﹂と報じられたことにより世に名高い<ref name="jiyuhashisezu">﹃[https://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/02_persons/index02_011.html?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTAAAR3drk50vGxoIHrw0J5JThhYdXwC_Exivm7bzS1zPn9VAGxnR6eWsTiCX6k_aem_AZD4QOma_s2DJ0oF-t7GtTUqdZaZcDqtCGxnMPCPOTbR484jL792Of2W5mcSmydKFqfWoLogHI1y7VtdtT1GKDTb 岐阜県上申自由党綜理板垣退助遭害ノ件・自第一号至第五号]﹄</ref>。板垣の名声が高まるに従い世間への影響力も増大する一方で、反対派は自由党の勢力を削ごうと画策し、幾度も暗殺未遂事件が起きた<ref name="ansatsumisui" />。[[岐阜事件|板垣退助岐阜遭難事件]]から2年後には早くも﹁[[明治17年板垣退助暗殺未遂事件]]﹂が起きている<ref>﹃板垣退助君傳記︵第2巻︶﹄宇田友猪著、原書房、2009年、914-917頁</ref>。板垣は[[岐阜事件|岐阜遭難事件]]の実行犯である[[相原尚褧]]の減刑を嘆願すると世間はまたこれに注目した。[[1889年]]︵明治22年︶相原が特赦を受け、5月11日、板垣邸に謝罪に訪れると板垣は相原に対して﹁他日︵将来︶、予︵板垣︶が國の行末を誤らんとせば、また白刄をもってて予︵板垣︶を殺(あや)めんとせよ﹂と諭したが<ref>﹃獄裡の夢︵一名、相原尚褧君実伝︶﹄池田豊志智編、金港堂、明治22年︵1889年︶7月</ref>、この言葉は再び反対勢力を刺激し挑発することになった<ref name="ansatsumisui" />。[[岐阜事件|岐阜遭難事件]]から10年後にあたる[[1892年]]︵明治25年︶、この﹁明治25年板垣退助暗殺未遂事件﹂が起きたが板垣は一貫して﹁私︵板垣︶一人を殺しても自由党の主張を封殺することは出来ない﹂と主張している<ref name="ansatsumisui" />。 |