「時間」の版間の差分
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{{Otheruses}}
{{redirect|歳月|その他の用法|歳月 (曖昧さ回避)}}
{{see also|時計|時計の歴史}}
[[ファイル:C solarcorona2003.gif|thumb|200px|人類にとって、もともとは[[太陽]]や[[月]]の動きが時間そのものであった。原始共同体でも、[[古代ギリシア]]でも、時間は繰り返されるもの、円環するもの、として語られた<ref>真木悠介 ﹃時間の比較社会学﹄ 岩波書店、2003年 </ref>。]] [[ファイル:SunDialAiKhanoum.jpg|thumb|200px|[[アイ・ハヌム]]︵紀元前4世紀~紀元前1世紀の古代都市︶で使われていた[[日時計]]。人々は日時計の時間で生きていた。]] [[ファイル:Wooden hourglass 3.jpg|thumb|200px|[[砂時計]]で砂の流れを利用して時間を計ることも行われるようになった [[File:Zytglogge 01.jpg|thumb|right|200px|[[スイス]]、[[ベルン]]の[[ツィットグロッゲ]]。ツィットグロッゲには15世紀に[[天文時計]]が設置された。]] '''時間'''︵じかん、{{ ==
{{See also|時間 (単位)|時間 (クルアーン)}}
「時間」という言葉は、以下のような意味で使われている。[[広辞苑]]<ref name=koujien6>広辞苑第六版</ref>で挙げられている順に解説すると次のようになる。
#
# (あくまで俗用。下で解説)[[時刻]]を指す用法
# 空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり<ref name="国語大辞典小学館">「日本国語大辞典-第六版」小学館 2001年6月</ref><ref name="広辞苑">「広辞苑-第五版」岩波書店 1998年11月</ref><ref name="国語辞典岩波">「国語辞典-第六版」岩波書店 2000年11月</ref>、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの<ref name="大辞林">「大辞林-第三版」三省堂 2006年10月</ref>。
2.の用法、時間という言葉を時刻という意味で用いてしまう用法は、広辞苑や日本語大辞典の解説によるとあくまで[[俗語]]である<ref name="広辞苑"/><ref name="日本語大辞典">﹁日本語大辞典﹂講談社 1989年11月</ref>。岩波﹃国語辞典﹄でも日常語<ref name="国語辞典岩波"/>としている。つまり﹁時間﹂を時刻の意味で使ってしまう用法は正しい用法ではない。なお時刻は、ある一瞬を指す概念である。例えば﹁本日14時20分﹂などである。時刻については別記事﹁[[時刻]]﹂が立てられているのでそちらで詳説する。 3. ▲2. の意味の時間、すなわち時刻の間およびその長さというのは﹁この仕事は時間がかかる<ref name="daijisen">﹃大辞泉﹄</ref>﹂とか﹁待ち合わせ時刻まで喫茶店で<u>時間</u>をつぶす<ref name="daijisen" />﹂とかのように用いられている概念である。長さの意味での時間を数で示す表現を日本語および英語で挙げてみると例えば﹁5時間 ({{en|five hours}})﹂﹁2日︵2日間、{{en|two days}}︶﹂﹁4ヶ月 ({{en|four months}})﹂などがある。 当記事では3.や1.を中心として解説する。2.については基本は別記事「[[時刻]]」で扱うが、(広辞苑でも解説されているように)3.の意味の時間は1.と2.を併せたような概念なので、2.の意味についても適宜言及する。
▲3. の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。[[カント]]などの指摘に基き現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。
;3.について
時間というのはあまりに基礎的で、あまりにとらえがたく<ref group="注">認識の基礎形式であり、もともと人間の認識の根底部分に、思考や認識と不可分の状態で横たわっており、逆に言うと、時間を人間の認識から分離して、客観的な対象として認識することがきわめて困難なため。</ref>、人は[[比喩]]を用いて 時間というのは人間にとっては比喩で表現して理解のとりかかりにしようとするくらいがせいぜいであり、正攻法で知的に考察しようとすればするほど困難に突き当たり理解しがたいものなので、時間について考察したアウグスティヌスは﹁私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない<ref name="名前なし-1">アウグスティヌス﹃告白﹄第11巻第14節</ref>﹂と述べた。 == 長さとしての時間 ==
=== 現代の
ただし日常的には秒以外に、多くの国や地域において、[[分]] ({{en|minute}})、[[時間 (単位)|時]] ({{en|hour}})、[[日]] ({{en|day}})、[[月 (暦)|月]] ({{en|month}})、[[年]] ({{en|year}}) が用いられており、しばしば[[週]] ({{en|week}}) も用いられる。また、[[十年紀]] ({{en|decade}})、[[世紀]] ({{en|century}})、[[千年紀]] ({{en|millennium}}) なども使われる場合がある。 === 《時の長さ》を表すもの ===▼
上記のうち、[[分]] ({{en|minute}})、[[時間 (単位)|時]] ({{en|hour}})、[[日]] ({{en|day}}) の3つは、[[SI併用単位]]である。 {{複数の問題
| section = 1
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| 独自研究 = 2017年9月
}}
人はもともと何かの変化を《時間そのもの》として感じていた、何かの変化と時間をはっきりと区別していなかった、ということは学者によって指摘されることがある(下の「古ゲルマン」などでも述べる)。
《[[年]]》は神話的・宗教的概念とも深く結び付いていることが指摘されるが(後述)、一方で人類の[[農耕]]活動の定着や知的活動の高まりと関連付けられて説明されることのあるものであり、古今東西の[[文明]]で広く用いられている。
︽[[週]]︾は7日をひとまとめと見なす概念・制度︵7曜制︶であるが、近・現代になるまで万国共通とは言えない状態であった。例えば日本では、平安期に伝わりはしたものの実際上は用いられておらず、生活周期としても日々の意識としても無きにひとしかった。日本人は10日 |url=http://www.shindo.co.jp/shindo/koyomi/tennji/topic/topic02.html
|accessdate=2011年4月12日
|title=曜日の話
|deadlinkdate=2024-03-24}}</ref>。7日をひとまとまりと見なす文化は、︵確かなことは判らない面もあるが︶[[バビロニア]]が起源だとも言われている。そして[[ユダヤ人]]がバビロニアに捕虜として連行された時に︵[[バビロン捕囚]]︶その地でその習慣を取り入れ、ユダヤ教文化からキリスト教文化へと継承され、同文化が広まった結果7曜制も世界に広まったと言われている。キリスト教と一体化していた王権と敵対・打倒し成立した革命政府︵たとえばフランス革命政府、ロシア革命政府など︶では7曜制を 機械式[[時計]]が制作されるようになると、天体とは切り離された人工的な時間概念が意識されるようになった。時計は、より短い周期で振動するものを採用することで精度を上げる技術革新が続き、遂には[[原子]]の発する[[電磁波]]の[[周波数]]によって精密に時間を計測できるようになった。これが[[原子時計]]である。 現代の[[国際単位系]]では、1967年以降、時間の[[基本単位]]として[[秒]]を[[原子時計]]によって定義している。すなわち、﹁秒︵記号はs︶は、時間の[[SI単位]]であり、セシウム周波数 ∆''ν''<sub>Cs</sub>、すなわち、セシウム133原子の摂動を受けない基底状態の超微細構造遷移周波数を単位Hz︵s<sup>−1</sup> に等しい︶で表したときに、その数値を{{val|9192631770}} と定めることによって定義される<ref> [https://unit.aist.go.jp/nmij/public/report/SI_9th/pdf/SI_9th_%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88.pdf 国際単位系︵SI︶第9版︵2019︶日本語版] p.99、産業技術総合研究所、計量標準総合センター</ref>﹂とされている。[[国際単位系]]におけるこの秒の定義は、世界的に統一されたものとして、社会生活や産業活動において最もよく使用されている。 {{See also|時刻}}
== 時刻 ==
時刻とは、ある特定の一瞬のことである。別の言い方をするなら、時の流れの中の一点(時点)ということである。
時刻の表し方は、歴史的に見て様々な方法がある。古くは日の動きで決めた。[[日の出]]という時刻があり、[[日没]]という時刻がある。また日が南中する時刻が[[正午]] ({{en|noon}}) とされ なお、一日のいつを一日の始まりの時刻と見なすかは文化圏によって異なっている。[[アラブ人]]や[[ユダヤ人]]は[[日没|日の入]]を一日の始まりとしている。また[[ギリシア]]にある[[正教会]]などでも、他の地域の正教会でも、日没の瞬間が一日の始まりだとされている。今日でもそうだとされている。一日は[[夜]]の[[闇]]の中で始まり、やがて[[明け方|夜明け]]を迎え、[[昼]]を迎え、最後に一日の終わりである[[夕|夕暮れ]]を迎える。同教会の[[修道士]]たちは現代でもそうした時刻観にもとづいた時間割で日々の生活を規則正しく送っている。 一方で、日の出の瞬間を一日の始まりだと見なしている文化も多い。[[バビロニア|バビロニア人]]や[[エジプト人]]は日の出を一日の始まりの時刻だとしていた。
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▲{{See also|時刻}}
== 古代宗教における時間 ==
ここから先は時代に沿って、様々な時間観を見てゆく。
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== ギリシャ神話 ==
[[ギリシャ神話]]には時にまつわる[[神]]が == 古代ギリシア ==
ある哲学者らは、時間を[[円 (数学)|円]]のように回り続けるイメージで捉えた。時間を円と考えると時間に始まりや終わりがあるかないかという面倒な問題が避けられる利点がある。似た考えは、[[マヤ]]や古代[[インド]]文明などにも存在した<ref name="Newton">﹃Newton﹄別冊﹁時間とは何か﹂改訂版 2013年5月13日</ref>。 == 古代ローマ ==
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[[ユダヤ教]]には円環的な時間観も見られ、その影響がキリスト教にも見られはするが、[[キリスト教]]にはそれを超えた反復不可能の一回的な時間観がある<ref name="shukyougaku_dic" />。
キリスト教の時間観にとって決定的なことは、神の子の[[受肉]]としての[[イエス・キリスト]]の[[この世]]への到来、その[[死]]と[[蘇生|復活]]という、歴史のただなかへの一度かぎりなされたとされる神の[[啓示]]である<ref name="shukyougaku_dic" />。これは反復されない、一回的で決定的な出来事とされ、それを唯一の根源としてキリスト教の[[救済]][[歴史観|史観]]が成り立っている。 キリスト教では、神の創造もただ一度で完了した過去の業にすぎないものではなく、それと同時に伝統的に「不断の創造」として現在の事実とされ、R.K.[[ブルトマン]]やC.H.[[ドッド]]などは[[終末]]についても現在性があると指摘している<ref name="shukyougaku_dic" />。
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== アウグスティヌス ==
時間をめぐる考察が厄介である事を示すためにしばしば引用される[[アウグスティヌス]]の有名な言葉に、﹁私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない<ref [[アウグスティヌス]]︵354年 - 430年︶は時間を内面化して考えた。時間は[[心]]と無関係に外部で流れているようなものではない。過去、現在、未来と時間を3つに分けて考えるのが世の常だが、過去とは︽すでにないもの︾であり、未来とは︽いまだないもの︾である。ならば在ると言えるのは現在だけなのか。過去や未来が在るとすれば、それは︽過去についての現在︾と︽未来についての現在︾が在る。過去についての現在とは︽[[記憶]]︾であり、未来についての現在とは︽[[期待]]︾、そして現在についての現在は︽[[直観]]︾だとアウグスティヌスは述べる。時間とは、このような心の働きである。﹁[[神]]は[[天地創造|世界創造]]以前には何をしていたのか?﹂と問う人がいるが、アウグスティヌスによれば、こうした問いは無意味である。なぜなら、時間そのものが神によって造られたものだから、創造以前には時間はなかった。神は[[永遠]]であり、過ぎ去るものは何もなく、[[全体]]が現在にある。 115 ⟶ 120行目:
== 11世紀以降のゲルマン世界 ==
[[ファイル:Murten Bern Tor photographed by Robbie Conceptuel.png|サムネイル|ミュルテンの時計塔 , [[スイス]]]]
11~12世紀以降にキリスト教が公的生活にまで影響を及ぼすようになったが、これは古ゲルマンの意識とは異質なものであり<ref name="abekinya" />時間意識や[[死生観]]は変化してゆくことになった<ref name="abekinya" />。キリスト教の時間意識は、神を目指すひとつの方向に進む直線的な時間観であったので、︽繰り返す時間︾の観念は否定されてゆくことになり、[[終末]]に向かって進んでゆく時間の変化が意識され<ref name="abekinya" />、人間は死ねば、[[煉獄]]、そして[[天国]]か[[地獄]]へ行き、[[最後の審判]]を待つしかない、とされることになった<ref name="abekinya" />。古ゲルマンと、[[現世|この世]]と[[あの世]]の時間的関係が全く異なる。人々は[[死]]ぬと現生とのきずながたたれる、ということにされた<ref name="abekinya" />。教会の教えにより、人はただ1度だけ生き、一度だけ死ぬ、ということになった<ref name="abekinya" />。 125 ⟶ 131行目:
[[アイザック・ニュートン]]は、[[自然哲学]]に[[ユークリッド幾何学]]︵および他の数学︶を大幅に導入した体系を構築、それを﹃[[自然哲学の数学的諸原理]]﹄︵''{{la|Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica}}'', 1687年刊︶で発表した。当時知られている幾何学は[[ユークリッド幾何学]]だけで、ニュートンが用いた幾何学もそれであったので、空間は均一で平坦な[[ユークリッド空間]]だと暗黙裡に[[仮定]]されている。 ニュートンは同著において、時間は[[過去]]から[[未来]]へとどの場所でも常に等しく進むもので、[[空間]]と共に、現象が起きる固定された舞台のように想定し、この固定された舞台を[[絶対時間と絶対空間|「絶対空間」及び「絶対時間」]]とも呼んだ{{Refnest|group="注"|ただし湯川秀樹は、ニュートンは自然の空間や時間が本当は均一では'''ない'''、と睨んでいたからこそ、あえて自らの体系の中で仮想されている空間や時間を「絶対空間」や「絶対時間」と呼んだのだ、といったことを指摘している<ref>出典:『湯川秀樹著作集』岩波書店。</ref>。}}([[空間#ニュートン力学での
ニュートン力学では、[[ガリレイ変換]]に対して空間座標と時間座標は独立であるため、時間座標︵時刻︶は空間座標︵位置︶の[[媒介変数|パラメータ]]︵{{en|parameter}}, 媒介変数︶として扱われる。従って、ニュートン力学の範囲では、時間は空間の一成分としては認識されず、3次元空間上で議論がなされる。 170 ⟶ 176行目:
=== カント ===
[[イマヌエル・カント]]︵1724年 — 1804年︶は、ニュートンの後の時代の人で、ニュートンの体系も学び大学で講義した人物である。彼は時間、空間の直観形式でもって、人間は様々な[[現象]]を[[認識]]すると考えた。カントにおいて経験的な認識は、現象からの刺激をまず外官︵外的なものからの刺激を受け取る[[感覚器官]]︶によって空間的に、[[内官]]︵内的なものの感じをうけとる感覚器官︶によって時間的に受け取り、それに純粋悟性概念を適用することによって成立する。空間は外官によって直観され、時間は内官によって直観される。この場合、時間は空間の[[メタファー]]として捉える見方もあるが、それは﹃[[純粋理性批判]]﹄解釈の大変難しい課題である。時間、空間の一体どちらが根源的な認識様式であるかという問いに関しては、どちらかといえば時間であるという見解も純粋理性批判には見出される。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられる事が多い。 === ベルクソンの説明 ===
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不可逆現象の事例は、ビデオ映像や映画フィルムの逆回しで説明されることが多い。例えば、“桶の底に入れた一升の米と一升の小豆の混合” を写した映画フィルムの例<ref>寺田寅彦﹁映画の世界像﹂寺田寅彦全集第八巻岩波書店 1997年 所収 p150</ref>や、“瀬戸物店に闖入した雄牛” を写したフィルムの例<ref>ピーター・コヴニー;ロジャー・ハイフィールド﹁時間の矢、生命の矢﹂草思社 1995年3月 p28</ref>や、“アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程” のビデオ録画の例<ref name="田崎秀一_p18">田崎秀一﹁カオスから見た時間の矢―時間を逆にたどる自然現象はなぜ見られないか﹂︵ブルーバックス︶講談社 2000年4月 p18</ref>、がある。このように、自然界において不可逆な現象は、可逆な現象よりもむしろありふれたものであり、﹁覆水盆に返らず﹂などの諺も残されている。しかしながら、ビデオの逆回しという考えからは、人間は時間の方向を一方向しか認識出来ていないだけではないかという解釈も出来る。例として、ビデオの中の登場人物を考えてみよう。時間とは変化を認識する事で初めて知覚する現象であり、ビデオの中の登場人物は何回巻き戻しを実行しても結局は同じ行動を繰り返すため、巻き戻しという逆方向の変化を認識出来ない。つまり、ビデオの中の世界の人物は時間の逆行に気づく事が出来てはいないが、実際には時間の逆行は何回も起きているのであり、ビデオとは異なる世界から観測しないと、それを認識する事が出来ない。これを、ビデオテープのパラドックスと言う。 イギリスの天体物理学者[[アーサー・エディントン]] (Arthur Stanley Eddington) はこの不可逆な現象を時間的非対称性だと考え、1927年に「[[時間の矢]]」と表現した<ref>Arthur Stanley Eddington "The nature of the physical world (The Gifford lectures)" MacMillan (1943) {{ASIN|B0006DFTN4|com}}</ref><ref>[[:en:Arrow of time|英語版ウィキペディア
この“時間の矢”を表す[[物理法則]]として、[[エントロピー#エントロピー増大則|エントロピー増大則]] (law of increasing entropy) について言及されることがある。エントロピー増大則は、﹁[[孤立系]]内の[[エントロピー]]は時間と共に増大するか変化しない﹂と言い表される。このことは[[熱力学第二法則]]、すなわち﹁ある物体より熱を取り、それをすべて仕事に変えて、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である﹂というトムソンの原理 (Thomson's principle, —statement) や﹁低温の物体から熱を取り、それをすべて高温の物体に写し、それ以外に何の変化も残さないようにすることは不可能である﹂というクラウジウスの原理 (Clausius' principle, —statement) などから導かれる。[[ウィリアム・トムソン]]︵ケルヴィン卿︶や[[ルドルフ・クラウジウス]]の主張は互いに等価であることが示されており、これらをまとめたものが熱力学第二法則である。熱力学第二法則は熱力学における基本原理であり、熱現象の観察事実を法則化したものである<ref>藤原邦男;兵頭俊夫﹁熱学入門―マクロからミクロへ﹂東京大学出版会 1995年6月3章</ref>。熱力学第二法則は時間の矢の現れの一つというだけでなく、非常に多くの時間の矢を説明︵ないしは置換︶できる。例えば、アルコールと水を混ぜて両者が一様に混ざっていく過程は﹁水とアルコールが分離した状態よりも、混ざった状態の方がエントロピーが高い︵自由エネルギーが低い︶ため起こる﹂と説明できる。そのためしばしば両者は同列に扱われる。しかし、エントロピー増大則が成り立つのは﹁孤立系﹂、すなわち外界と熱的なやりとりがない系においてであり、エントロピー増大則をもって﹁時間の矢﹂問題がすべて理解されるということはない。 213 ⟶ 219行目:
== 時間の速さ ==
︽人が感じる時間︾の速さは、[[気分]]、[[年齢]]等により変化する、と言われている。例えば同じ曲を流しても、安静にしていたり寝ぼけている時は速く聴こえ、激しい運動・活動の後では遅く聴こえる事がある。こうした場合、感じている時間の速さに相対的な違いがあると言える。また、年齢を重ねれば重ねるほど、一日なり一年が過ぎるのが速くなってきている、という感覚はほとんどの人が感じることである︵[[ジャネの法則]]︶。年をとって自分の動作や思考の速さ・時間当たりの作業量が低下すると、相対的に時間が速く過ぎるように感じる。若い時に10分で歩けた道を歩くのに20分かかるようになったり、1日で片づけられた仕事に2日かかるようになったりすると、時間が2倍ほど速く過ぎるように感じることになる。{{要出典|範囲=また人は時間をそれまで生きてきた経験の量の比率のようなもので感じている、と言われる|date=2021年10月}}こともある。これは、7歳の子供にとっての1年が人生の7分の1であるのに対して、70歳の老人にとっての1年が人生の70分の1であることからも説明ができる。心理的な時間は、さまざまな要因によって影響を受け伸縮する。その影響の度合いは大人に対し子供の方がずっと大きい。大人は心理的な時間の伸縮に左右される出来事があっても﹃短く感じられるが実はこのくらいだろう﹄と心理的時間を補正できるが、子供はできない。大人はこの﹁'''時計時間'''﹂に支配されるが子供は﹁'''出来事時間'''﹂に支配される<ref name="Newton"></ref>。 人間の[[体温]]も時間の感覚に影響するという<ref name ="higengo">{{Cite |和書 | author = マジョリー・F・ヴァーガス| translator = 石丸正 | title = 非言語コミュニケーション | date = 1987 |series = 新潮選書 |publisher = 新潮社 |pages=173}}</ref>。体温が常温以下に下がると、時間が早く過ぎ、高熱を発すると、普段以上にゆっくりと過ぎるように感じられるという<ref name ="higengo"/>。 283 ⟶ 289行目:
一部のSF等に登場する、時間に因果律や連続性は存在せずバラバラな﹁瞬間﹂が並んでいるだけ、という考え<ref>山本弘﹁トンデモ本?違う、SFだ!﹂ 洋泉社 2004年7月</ref>。 因果律や連続性があるように感じるのは人間の[[錯覚]]ということになる。因果律が存在しない以上、たとえ﹁過去﹂を改変したとしても、以降の歴史には影響がでない。従ってタイムパラドックスも生じない。 == 脚注 ==
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{{SEP|time-thermo|Thermodynamic Asymmetry in Time|時間の熱力学的非対称性|nolink=yes}}
* {{Kotobank}}
*[https://timecrowd.net/ TimeCrowd] - 個人の時間を計測できるタイムトラッキングツール
{{自然}}
{{Time topics}}
{{Time measurement and standards}}{{科学哲学}}{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しかん}}
[[Category:時間|*しかん]]
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