「曽雌定子」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
|||
2行目:
[[延宝]]4年︵[[1676年]]︶、母方の親戚の柳沢吉保︵当時は保明︶の正室となる。内助の功を発揮し、賢夫人として知られ、学問への造詣が深かった。[[元禄]]15年︵[[1702年]]︶、[[江戸城]][[大奥]]にて将軍御台所[[鷹司信子]]に拝謁するが、大名の妻の登城は他にあまり例がない。正徳3年に別邸︵現在の[[六義園]]︶で53歳で没する。この時、吉保の側室が皆嘆き悲しむほどの人格者であった。法名は、真光院殿海月映珊大師。墓所は[[恵林寺]]︵現・山梨県甲州市︶。 柳沢氏の[[菩提寺]]である[[奈良県]][[大和郡山市]]の[[永慶寺]]は旧地が甲斐国岩窪村に所在し、同寺には仏師浄慶作の、柳沢吉保と定子の夫人像が伝来している。
==演じた俳優==
|