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|hangeul=이광수
|hanja=李光洙
|hiragana=り こうしゅ
|katakana=イ・グァンス
}}
'''李 光洙'''︵イ・グァンス、[[1892年]][[3月5日]] - [[1950年]][[10月25日]]︶は、[[朝鮮]]の[[文学者]]、[[思想家]]。﹁[[朝鮮]][[近代文学]]の祖﹂とも言われる。[[本貫]]は[[全州李氏]]<ref>{{Cite web |title=(3)전주 이씨(全州李氏)-2,609,890명 |url=http://www.seouleconews.com/news/articleView.html?idxno=9265 |website=서울이코노미뉴스 |date=2014-07-05 |access-date=2022-08-16 |language=ko}}</ref>。[[雅号|号]]は﹁春園﹂︵チュンウォン、춘원︶。[[創氏改名]]時の[[日本名]]は﹁香山光郎﹂(かやま == 経歴 ==
[[平安北道]][[定州市 (平安北道)|義州府定州郡]]出身。10歳の時に両親を[[コレラ]]で亡くす。[[1905年]]に[[一進会]]の留学生に選抜され、[[日本]]の[[大成高等学校 (東京都)|大成尋常中学校]]を経て、[[明治学院高等学校|明治学院普通学部]]在学中に[[小説]]の執筆活動を始める。帰国後、[[五山高等学校|五山学校]]に赴任。一時[[シベリア]]を放浪するが、[[ロシア帝国]]の[[第一次世界大戦]]を受け帰国。日本に再留学し、[[早稲田大学]]に入学。在学中に﹃無情﹄を発表。[[1919年]]、[[三・一運動]]に先立って、ほかの朝鮮人留学生とともに﹁[[二・八独立宣言]]﹂の起草に加わった後、[[上海市|上海]]に亡命、[[大韓民国臨時政府]]樹立に加わり独立新聞の編集長に就任する。[[1921年]]に朝鮮に帰国にした後、[[朝鮮総督府]]に逮捕されるが不起訴のまま釈放される。その後[[東亜日報]]に就職。後に編集長に就任する。後に[[朝鮮日報]]に移籍し、同社副社長となる。 [[民族主義]]的な立場から[[儒教]]思想と因習を批判する[[啓蒙主義]]的な小説の執筆活動をおこなう。小説に留まらず東亜日報に﹁民族的経綸﹂などの[[論説]]を掲載し、[[韓国併合|朝鮮の亡国]]の原因は[[朝鮮民族]]自身の劣位性にあるとし、[[1922年]]発表の﹃民族改良論﹄では[[民族改良主義]]と呼ばれる民族の実力養成を説いた。[[1937年]]に{{仮リンク|修養同友会事件|ko|수양동우회_사건}}で2度目の逮捕、収監︵半年後釈放、[[1941年]]無罪確定︶された後は植民地当局の圧力に屈服し2度目の転向を行い対日協力路線に転ずる。[[創氏改名]]の推奨に尽力し、自らも'''香山光郎'''と名乗った。また、[[日本語]]による創作も行い[[1940年]]3月には﹃無明﹄で[[朝鮮藝術賞]]を受賞している。[[第二次世界大戦]]中は朝鮮人が戦争へ積極的に参加するよう呼びかけた<ref name="joinscom20090821">[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=119509&servcode=A00§code=A10 ︻その時の今日︼侵略戦争参加督励した李光洙﹁民族のため親日﹂弁解] [[中央日報]] 「大義党」を結成したが、李光洙もこれに加わっている。
朝鮮解放後に収監され釈放後も[[親日派]]の烙印が押され、﹁'''李狂洙'''<ref>[[朝鮮語|韓国語]]では“光”と“狂”は共に“{{Lang|ko|광}}”と書く。</ref>﹂などという[[蔑称]]まで付けられ作品の評価をうけることは少なかった。[[李承晩]]政権下では反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で'''﹁私の親日は祖国の為のものだ!﹂'''と叫んだと伝えられている。また、﹁たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい﹂と訴えたとも言われる<ref name="joinscom20090821"/>。 [[朝鮮戦争]]中、[[朝鮮人民軍]]が[[ソウル特別市|ソウル]]を占拠した際に[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に[[拉致]]され、その後、重度の[[凍傷]]に罹って[[1950年]][[10月25日]]、人民軍病院で[[結核]]の悪化のため死去した︵[[平壌]]近郊に建てられた墓には、その日に亡くなったと記されているが異説も存在する︶。 死去から20年後の1970年に[[ノーベル文学賞]]候補となっていたことが、ノーベル賞委員会の公表した候補者リストにより確認されている<ref>[https://www.nobelprize.org/nomination/archive/show_people.php?id=15250 Kwang-Soo Lee] - Nomination archive(ノーベル賞委員会、英語)2022年9月20日閲覧。</ref>(通常、物故者は受賞対象とならない)。
== 評価 ==
*光洙は元来、当時の西欧由来の﹃近代﹄思想に基づく実力養成論者であったが、李が親日路線に転じてまでも執筆を続けたのは朝鮮民族の力量の養成のために、一旦は朝鮮民族よりは近代化において勝っており、国力も高い[[大日本帝国]]の意を迎えるよりないと考えたからだとされる。李光洙は他の親日派のように目的のために日本を利用した人々の一人であり、その理由が﹁実力育成﹂だったとされている。つまり、列強に朝鮮王朝や当時の段階では独自の力だけで対抗するのは不可能だとして、急速な近代化の﹁利用できる列強﹂が日本だったからだとしている。[[木村幹]]は半島に残っていた勢力による行為が自立や独立の前段階の行為として朝鮮半島では実際の独立に結びつかず、外部要因によって独立がもたらされたために﹁西洋近代﹂をモデルとした朝鮮半島の近代化に日本を利用していた人々が批判されていると主張している<ref> *一方で﹁光洙の﹃近代西欧﹄思想に基づく民族改良主義による実力養成の論理自体が朝鮮民族の劣位性を説き、大日本帝国の統治支配と妥協しこれを容認する論理であり、親日に転落する可能性を秘めたものでその点において非難を免れない﹂との主張もある<ref>[[林鍾国]]原著、反民族問題研究所︵現・[[民族問題研究所]]︶編集、[[コリア研究所]]翻訳、親日派―李朝末から今日に至る売国売族者たちの正体、[[御茶の水書房]]、 *[[李栄薫]]は、[[民族]]とは[[20世紀]]に朝鮮人が日本の統治を受けるようになってから発見された、[[想像]]の政治的共同体であり、そのような[[民族主義|民族意識]]を目覚めさせ、普及させた代表的知識人が光洙であるとする<ref name="反日種族主義との闘争"/>。光洙は朝鮮の[[無知]]、不潔、[[社会秩序|無秩序]]、[[感情|無気力]]に絶望しながらも、[[民族]]とは永遠なる海のような存在であり、[[朝鮮民族]]は再生するのだ、[[日本人]]のように互いに協同する清潔で[[勇気|勇敢]]な[[文明|文明人]]として生まれ変わることだけが、民族再生の道だ、と人々に説いた<ref name="反日種族主義との闘争"/>。こういう光洙を[[趙寛子]]︵[[ソウル大学校|ソウル大学]]︶は﹁[[ナショナリズム|親日ナショナリスト]]﹂と命名した<ref name="反日種族主義との闘争">{{Cite book|和書|editor=[[李栄薫]]|date=2020-09-17|title=反日種族主義との闘争|series=|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4163912592|page=109}}</ref>。例えば、[[学徒出陣|学徒志願兵]]の出身で[[光復会 (韓国)|第16代光復会会長]]を務めた金祐詮は、﹁李光洙の小説を読んで[[民族主義|民族意識]]と近代的な[[自我]]に目覚めた﹂と告白しており、その時代の朝鮮の青年は、光洙の作品を読み、[[近代人]]として生まれ変り、植民地の民衆としての挫折感を克服し、朝鮮の明るい未来を開拓する民族意識を高揚させた<ref name="反日種族主義との闘争"/>。▼ ▲一方で﹁光洙の﹃近代西欧﹄思想に基づく民族改良主義による実力養成の論理自体が朝鮮民族の劣位性を説き、大日本帝国の統治支配と妥協しこれを容認する論理であり、親日に転落する可能性を秘めたものでその点において非難を免れない﹂との主張もある<ref>[[林鍾国]]原著、反民族問題研究所︵現・[[民族問題研究所]]︶編集、[[コリア研究所]]翻訳、親日派―李朝末から今日に至る売国売族者たちの正体、[[御茶の水書房]]、[[1992年]]。</ref>。 ▲[[李栄薫]]は、[[民族]]とは[[20世紀]]に朝鮮人が日本の統治を受けるようになってから発見された、[[想像]]の政治的共同体であり、そのような[[民族主義|民族意識]]を目覚めさせ、普及させた代表的知識人が光洙であるとする<ref name="反日種族主義との闘争"/>。光洙は朝鮮の[[無知]]、不潔、[[社会秩序|無秩序]]、[[感情|無気力]]に絶望しながらも、[[民族]]とは永遠なる海のような存在であり、[[朝鮮民族]]は再生するのだ、[[日本人]]のように互いに協同する清潔で[[勇気|勇敢]]な[[文明|文明人]]として生まれ変わることだけが、民族再生の道だ、と人々に説いた<ref name="反日種族主義との闘争"/>。こういう光洙を[[趙寛子]]︵[[ソウル大学校|ソウル大学]]︶は﹁[[ナショナリズム|親日ナショナリスト]]﹂と命名した<ref name="反日種族主義との闘争">{{Cite book|和書|editor=[[李栄薫]]|date=2020-09-17|title=反日種族主義との闘争|series=|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4163912592|page=109}}</ref>。例えば、[[学徒出陣|学徒志願兵]]の出身で[[光復会 (韓国)|第16代光復会会長]]を務めた金祐詮は、﹁李光洙の小説を読んで[[民族主義|民族意識]]と近代的な[[自我]]に目覚めた﹂と告白しており、その時代の朝鮮の青年は、光洙の作品を読み、[[近代人]]として生まれ変り、植民地の民衆としての挫折感を克服し、朝鮮の明るい未来を開拓する民族意識を高揚させた<ref name="反日種族主義との闘争"/>。 == 経歴年表 ==
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== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書|author=波田野節子 |title=李光洙・『無情』の研究 : 韓国啓蒙文学の光と影 |publisher=[[白帝社]] |year=2008 |ISBN=9784891748982 |id={{全国書誌番号|21496383}} |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009606330-00 |ref=harv}}
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Yi Kwang-su}}
* [http://www.han-lab.gr.jp/~cham/ajiwau/chap4/chap4.html 三枝寿勝の 「韓国文学を味わう」 第 IV 章]
* [http://
* [https://web.archive.org/web/20160520075937/http://www.ne.jp:80/asahi/kami/asi-pon/syuronall.html 「皇国臣民」の人間像-李光洙の「親日」活動と今日の「在日」コリアン-](アーカイブ)
{{Normdaten}}
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[[Category:19世紀朝鮮の小説家]]
[[Category:20世紀朝鮮の小説家]]
[[Category:20世紀に結核で死亡した人物]]▼
[[Category:日本統治時代の朝鮮の小説家]]
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[[Category:親日反民族行為認定者]]
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[[Category:1892年生]]
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