「条野採菊」の版間の差分
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1884年︵明治17年︶10月︵52歳︶、西田伝助と、東京日日新聞社から﹃[[やまと新聞|警察新報]]﹄紙を発刊したが<ref>土屋礼子‥﹃大衆紙の源流﹄、世界思想社︵2002︶p.250</ref>、部数が伸びなかったので、代わりに1886年10月、娯楽主体の﹃[[やまと新聞]]﹄を創刊し、作品を連載した。1889年には﹃[[新小説]]﹄の創刊に関わり、そこに創作を載せもして、作家に復帰した。 1889年︵明治22年︶︵52歳︶から[[神田区]]会議員、1892年から神田区会議長だった。その11月、三遊亭円朝・[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]・[[三遊亭円遊#初代|三遊亭円遊]]・[[田村成義]]らを集めて、[[百物語]]を主宰した。<ref>一柳広高・近藤瑞木編‥﹃<small>幕末明治</small> 百物語﹄、[[国書刊行会]]︵2009︶ISBN9784336051202</ref><ref>[[山本笑月]]‥﹃明治世相百話﹄、[[中公文庫]]︵1983︶p.78</ref>。 [[歌舞伎]]の台本も書いた。新聞社の劇評家仲間の長老で、1890年、東京日日の新人記者の[[岡本綺堂]]が、採菊に面倒を見て貰ったと言う挿話がある<ref>岡本綺堂‥﹃ランプの下にて﹄、[[岩波文庫]]︵1993︶p.155</ref>。採菊には、嘗ての職場の新米記者だった。 |