「条野採菊」の版間の差分
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家は日本橋長谷川町︵現・[[日本橋堀留町]]2丁目︶の[[地本問屋]]だった。本郷三丁目の呉服屋伊豆倉の番頭を務めるかたわら、17歳頃から五代目川柳こと[[水谷緑亭]]に弟子入りし、頭角をあらわした。伊豆倉の顧客の老中[[阿部正弘]]に文才を認められて可愛がられ{{Efn|今紀文と呼ばれた[[細木香以]]が後援者の一人であった<ref>{{Cite book|和書|author=野崎左文|year=2007|title=増補私の見た明治文壇1|publisher=平凡社|pages=136p}}</ref>。}}、また、年長の戯作者、[[松亭金水]]・[[梅亭金鵞]]・[[仮名垣魯文]]らと交わった。 [[三遊亭円朝]]や[[河竹黙阿弥|河竹其水]]も会員の[[三題噺]]の会『[[粋狂連]]』を、魯文と組織し、1863年([[文久]]3年)、共輯の『酔興奇人伝』<ref>『日本近代思想大系18』、岩波書店(1988)所収</ref>を
1860年︵[[万延]]元年︶︵28歳︶、[[人情本]]﹃春色恋廼染分解﹄︵ 1868年︵[[慶応]]元年︶4月︵36歳︶、[[福地源一郎]]創刊の﹃[[江湖新聞]]﹄に[[広岡幸助]]・[[西田伝助]]と参画したが、[[佐幕]]的編集のゆえに翌月廃刊を強いられた。1869年の﹃[[六合新聞]]﹄も、第7号で終わった。 17行目:
1884年︵明治17年︶10月︵52歳︶、西田伝助と、東京日日新聞社から﹃[[やまと新聞|警察新報]]﹄紙を発刊したが<ref>[[土屋礼子]]‥﹃大衆紙の源流﹄、世界思想社︵2002︶p.250</ref>、部数が伸びなかったので、代わりに1886年10月、娯楽主体の﹃[[やまと新聞]]﹄を創刊し、作品を連載した。1889年には﹃[[新小説]]﹄の創刊に関わり、そこに創作を載せもして、作家に復帰した。 1889年︵明治22年︶︵52歳︶から[[神田区]]会議員、1892年から神田区会議長だった。その11月、三遊亭円朝・[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]・[[三遊亭円遊#初代|三遊亭円遊]]・[[田村成義]]らを集めて、[[百物語]]を主宰した [[歌舞伎]]の台本も書いた。新聞社の劇評家仲間の長老で、1890年、東京日日の新人記者の[[岡本綺堂]]が、採菊に面倒を見て貰ったと言う挿話がある<ref>岡本綺堂‥﹃ランプの下にて﹄、[[岩波文庫]]︵1993︶p.155</ref>。採菊には、嘗ての職場の新米記者だった。 23行目:
﹃やまと新聞﹄社長を辞した翌1902年︵明治35年︶、心臓衰弱により没した。70歳。﹃清高院晋誉去来採菊居士﹄。墓は[[谷中霊園]]にある。 == 主な文業 ==
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