「杲隣」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
増補 |
m編集の要約なし |
||
1行目:
'''杲隣'''︵ごうりん、[[神護景雲]]元年︵[[767年]]︶?<ref name="seinen">この生年は、承和4年︵837年︶4月5日付僧綱牒︵続々群書類従本﹃東宝記﹄第七︶に﹁年七十一﹂とあることから逆算されたものだが、武内孝善﹁泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性﹂︵﹃高野山大学論叢﹄37、2002年︶は僧綱牒とそれに基づいて算出された泰範の生年の信憑性を否定しており、杲隣の生年も同様に否定されることになる。</ref> - 没年不詳︶は、[[平安時代]]前期の[[真言宗]]の[[僧]]。空海の[[十大弟子]]の一人。出自については不詳。 はじめ[[東大寺]]で[[三論宗]]・[[法相宗]]を学び、のち[[空海]]に師事して[[密教]]を学んだ。[[812年]]︵[[弘仁]]3年︶には[[実恵]]、[[智泉]]とともに[[高雄山寺]]の[[三綱]]に選ばれ、上座となっている。一説には、[[833年]]︵[[天長]]10年︶に空海にしたがって[[高野山]]にのぼり修禅院を建立したという。また、空海の没後、京に修学寺を開き教授したとか、[[伊豆国]]に住して走湯房・[[修禅寺]]を開創したと伝えられる。[[836年]]︵[[承和 (日本)|承和]]3年︶、実恵が入唐請益僧[[真済]]に託した書状︵遭難のため唐に届けられず︶には、空海から伝法の印可を蒙った弟子8人の中に﹁嶺東の杲隣﹂としてその名が見えるほか、翌[[837年]]︵承和4年︶に弟子[[円行]]が[[唐]]に渡った際の書状にも署名した8人の中に﹁伝灯大法師杲隣﹂として見える。その後の消息は不明である。 なお、[[878年]]︵[[元慶]]2年︶11月11日の真雅言上状<ref name="gonjoujou">﹁本朝伝法灌頂師資相承血脈﹂︵﹃大日本古文書﹄家わけ19、醍醐寺文書之一、279号︶所載。</ref>には、杲隣の付法弟子として、入唐した前述の円行のほか、十禅師伝灯大法師位として真隆︵伝不詳︶の名が見える。 |