「栗原健太」の版間の差分
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'''栗原 健太'''('''くりはら けんた'''、[[1982年]][[1月8日]] - )は、[[広島東洋カープ]]所属の[[プロ野球選手]]([[内野手]])である。
== 来歴・人物 ==
=== アマチュア時代 ===
[[天童市]]山口の焼肉店に生まれる。中学時代のポジションは[[投手]]。[[日本大学山形高等学校]] === プロ入り後 ===
[[2000年]]、[[2001年]]は怪我との戦いもあり終始2軍だったが、2年目にはウェスタン打率.306と規定打席未到達ながら打撃センスの片鱗を見せた。
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[[2003年]]は春期キャンプを訪れた[[長嶋茂雄]]から﹁将来球界を代表する打者になれる﹂と指導を受けた。しかしシーズンでは1軍と2軍を行ったり来たりであった。[[ウエスタン・リーグ]]では打率.315 13HR 53打点で、本塁打と[[打点]]の2冠に輝いた。また三振も24と非常に少なく、3年連続で打率3割超えも果たした。 [[2004年]]のオープン戦で、本人が幼い頃からファンだった[[清原和博]]にバットを貰い、﹁バッティングは気合だ﹂という教えを受けた。その後、バッティンググローブには﹁'''気合'''﹂の文字が刺繍されたデザインを使用。この年は[[嶋重宣]]とともに初めて開幕スタメンに名を連ねた。序盤は打撃不振だったが、巨人戦にホームランを連発。レギュラーの座に近づく年となった。最終的には90試合に出場し、11本の本塁打を打ちレギュラーの座を掴むかに見えた。しかし[[10月2日]]の阪神戦で、 [[2005年]]は怪我で出遅れた事もあり、調整の意味で二軍の試合に数試合出場した。その際入団から栗原を見ていた二軍監督の[[木下富雄]]から﹁栗原はもう[[広島東洋カープ由宇練習場|由宇]]には戻ってこないだろう﹂と言わしめる程に{{要出典}}、安打と本塁打を量産。主に1塁を守っていた[[野村謙二郎]]の2000本安打達成後に一軍昇格。その後77試合に出場した。 49 ⟶ 53行目:
[[2007年]]、目標をシーズン通しての出場、50本塁打とした。前年に続き[[アメリカ合衆国|アメリカ]]アリゾナ州で始動。嶋、[[吉田圭]]と共に自主トレを行った。怪我の間に13%に上がっていた体脂肪を9%に戻し、また1日6食療法で今回は92kgに減量した。後半戦は骨棘による肘の痛みなどもありながら全試合出場を果たし、リーグ打撃5位と好成績を収めた。シーズンで長打率.500を超えた右打者で三振が二桁で済んだ打者はセリーグでは栗原だけである<ref>パ・リーグには[[グレッグ・ラロッカ]]がいる</ref>。勝利打点11は[[前田智徳]]、[[新井貴浩]]の8を抜きチーム1位と、勝利に貢献した。また左右どちらでも打率3割越えと右左での対戦でも苦にしなかった。 === 性格・プレースタイル ===
長打力が魅力のスラッガーにしては悪球打ちも多く、選球眼に粗が見られる事もある。変化球の対応は元来うまく、近年は速いストレートへの対応力もさらに向上した。逆方向へのシャープな打撃も多く、コンスタントに広角に長打を打てる器用さとパワーを持ち合わせ、スイングミスの少ない打者でもある。▼
▲長打力が魅力のスラッガーにしては悪球打ちも多く、選球眼に粗が見られる事もある。変化球の対応は元来うまく、近年は速いストレートへの対応力もさらに向上した。逆方向へのシャープな打撃も多く、コンスタントに広角に長打を打てる器用さとパワーを持ち合わせ、スイングミスの少ない打者でもある。同じ東北出身の[[落合博満]]のように、バットのヘッドを内から外に投げ出すような﹁インサイドアウト打法﹂を打撃の手本とした。これはスイングスピードと高い技術を必要とするが、少年野球の頃から取り組んでいる。 メジャー志向が強く、将来的にポスティングでの渡米を訴えている<ref>[[2008年]][[4月18日]]スポニチより。</ref>。
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== エピソード ==
* [[2004年]]末、カープのホームランガールと[[結婚]]し、翌7月女児誕生、同12月に女児を伴い妻と披露宴を挙げた。<!--︵しかし、2005年には栗原との間に男児を生んだという地元広島の女性が週刊誌で告発するという隠し子騒動もあった︶-->▼ ▲* プロ入団時から、すでに並外れた筋力で、当時チーム内でも特に鉄の体をしていた[[金本知憲]]︵現阪神︶や[[浅井樹]]︵現打撃コーチ︶らに匹敵する数値で周囲を驚かせた︵高校3年時に計測した数値は背筋力280キロ、スクワット330キロ、ベンチプレス120キロ︶。また50mを6.0秒︵100m11秒7︶で走るなどパワーだけでなく走れる選手としてスカウトから評価された。 ▲* 2004年末、カープのホームランガールと[[結婚]]し、翌7月女児誕生、同12月に女児を伴い妻と披露宴を挙げた。<!--︵しかし、2005年には栗原との間に男児を生んだという地元広島の女性が週刊誌で告発するという隠し子騒動もあった︶--> * 広島に入団した[[2000年]]から[[2002年]]まで日本の現役プロ野球選手で唯一の[[山形県]]出身選手だった。[[2003年]]に[[高橋敏郎]]が[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]に入団して以降、[[2008年]]現在では山形県出身の現役選手は栗原を含め4名まで増えた。
* [[2004年]]には初めて地元[[山形県野球場]]での[[横浜ベイスターズ|横浜]]戦︵横浜主催試合︶で2試合ともスタメンだったが、地元の大声援が逆にプレッシャーとなり、全くいい所が無かった。そして最後の打席は当時不調でずっと控えに甘んじていた[[新井貴浩 * * [[2007年]][[9月13日]]に、当時 ▲* 実力的に[[2003年]]頃から一軍に定着、[[2004年]]は[[新井貴浩|新井]]よりスタメンになる事も多かった。一気にレギュラー定着かと思われた[[2005年]]は自身のケガにより出遅れ、その間に開幕スタメンでは無かった[[新井貴浩|新井]]がホームラン王になるなどの大活躍。そして、[[野村謙二郎|野村]]とサード、ファーストのポジションを争う事が多かったため、スタメン定着は遅れた。 ▲* [[2007年]]9月13日に、当時驚異的なストレートで絶対的なクローザーとして被本塁打とは無縁であった阪神の[[藤川球児]]からレフトスタンド中段に見事ホームランを放つ。9月にも関わらず2007年度の[[藤川球児|藤川]]が浴びた2本目の本塁打だった。ちなみにプロ入り初ヒット初ホームランの相手も藤川︵ただし、この頃の藤川はまだ実力的には並の若手投手だった︶。 * 2006年から[[アリゾナ]]の[[アスリート・パフォーマンス]]という施設で例年約1ヶ月間トレーニングに励んでおり、3年目の2008年は地元局の[[広島ホームテレビ]] ▲* 若い頃は脱臼癖があって2軍の試合でダイビングキャッチを試みた時に肩が抜けてしまい、当時の2軍首脳陣からダイビング禁止令が出るなど、その圧倒的なパワーを誇る体とは裏腹に、やや怪我しやすい体質でもある。
▲* その風貌と名前をもじりスポーツ新聞では以前、"クリ原人"と書かれていたが、2006年のニックネームを募集で"'''コング(栗原)'''"に決まった。2005年のホームラン'''キング'''・[[新井貴浩]]とあわせて[[キングコング]]砲と呼ばれていた。
== 注 ==
▲* 阪神からの交換トレードで移籍してきた[[喜田剛]]とは顔が似ていてファーム時代も重なるため、ファームの頃には野球ファンから栗原本人、もしくは兄弟かとよく間違われると喜田が語っていた。
<references />
▲* 2006年から[[アリゾナ]]の[[アスリート・パフォーマンス]]という施設で例年約1ヶ月間トレーニングに励んでおり、3年目の2008年は地元局の[[広島ホームテレビ]](「[[北斗晶の鬼嫁運動記者倶楽部]]」#38/2008年2月2日放送分)が初めてその施設に潜入することに成功。日本のテレビ局としても初の自主トレ様子を放送した。
== 関連項目 ==
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