栗原健太
日本のプロ野球選手、コーチ
栗原 健太(くりはら けんた、1982年1月8日 - )は、広島東洋カープ所属のプロ野球選手(内野手)。
'広島東洋カープ #5' | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 山形県天童市 |
生年月日 | 1982年1月8日(42歳) |
身長 体重 |
183 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、三塁手 |
プロ入り | 1999年 3位 |
初出場 | 2002年8月31日 |
年俸 | 6500万(推定) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
日本大学山形高等学校では2年夏の甲子園に出場したが、1回戦敗退︵自身の成績は4打数1安打1打点︶。高校通算39本塁打。1999年ドラフトでは、ヤクルトも上位指名での獲得を狙っていたというが[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を﹁date=yyyy年m月﹂形式で記入してください。間違えて﹁date=﹂を﹁data=﹂等と記入していないかも確認してください。、3位で広島東洋カープに推定契約金4500万円で入団。右の長距離砲として期待され、入団時の触れ込みでは江藤2世と言われたが、引っ張って高い弾道を描く本塁打を打つ江藤に比べて、流し打ちが出来、ライナー性の本塁打が多いためあまり似ていない。
2000年、2001年は怪我との戦いもあり終始2軍だったが、2年目にはウェスタン打率.306と規定打席未到達ながら打撃センスの片鱗を見せた。
2002年、開幕から2軍の4番に座り、フレッシュオールスターに出場。阪神2軍監督の岡田彰布が目玉選手に栗原の名前を挙げ、スタメン4番に据えるなど期待の高さをうかがわせた。試合では無安打と結果は出なかった。8月30日に1軍初昇格。9月5日広島市民球場での阪神戦でスタメン出場2試合目に藤川からプロ入り初安打となる本塁打を打つ。この年のウェスタン成績は打率.305 6HR 6盗塁でリーグ打撃3位だった。10月に行われた第14回アジア競技大会野球日本代表では、広島からは栗原が派遣された。初の国際試合ながら6番一塁で出場し、中国戦では本塁打を打つなど活躍した。なおこの大会ではプロ各球団一名づつ選手を出したが、後にチームメートともなる喜田剛も派遣されていた。
2003年は春期キャンプを訪れた長嶋茂雄から﹁将来球界を代表する打者になれる﹂と指導を受けた。しかしシーズンでは1軍と2軍を行ったり来たりであった。ウエスタン・リーグでは打率.315 13HR 53打点で、本塁打と打点の2冠に輝いた。また三振も24と非常に少なく、3年連続で打率3割超えも果たした。
2004年のオープン戦で、本人が幼い頃からファンだった清原和博にバットを貰い、﹁バッティングは気合だ﹂という教えを受けた。その後、バッティンググローブには﹁気合﹂の文字が刺繍されたデザインを使用。この年は嶋重宣とともに初めて開幕スタメンに名を連ねた。序盤は打撃不振だったが、巨人戦にホームランを連発。レギュラーの座に近づく年となった。最終的には90試合に出場し、11本の本塁打を打ちレギュラーの座を掴むかに見えた。しかし、終盤の消化試合でのミスにより監督の山本浩二に悪印象を持たれたままシーズンを終えた︵詳しくは#エピソード参照︶。
2005年は怪我で出遅れた事もあり、調整の意味で二軍の試合に数試合出場した。その際入団から栗原を見ていた二軍監督の木下富雄から﹁栗原はもう由宇には戻ってこないだろう﹂と言わしめる程に[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を﹁date=yyyy年m月﹂形式で記入してください。間違えて﹁date=﹂を﹁data=﹂等と記入していないかも確認してください。、安打と本塁打を量産。主に1塁を守っていた野村謙二郎の2000本安打達成後に一軍昇格。その後77試合に出場した。
2006年は背番号を﹁50﹂から清原と同じ﹁5﹂に変更。1月、単身自費でアメリカに渡り、メジャーリーガーとともにトレーニングを行った。体脂肪は10%から9%に減らしながら、体重は100kgに増やした。シーズンでは初めて数試合4番に座った他、7月の月間MVPを取るなど成績を上げた。だが8月に腰に違和感が生じ、検査したところ椎間板ヘルニアと診断された。8月23日に手術を受け、残りシーズンを棒に振った。皮肉にも7月の月間MVPを一緒に受賞した黒田博樹も戦線離脱の憂き目に遭った。途中離脱をしたにもかかわらず、勝利打点はチームでは嶋重宣に次ぎ、また本塁打で2ラン以上の割合がリーグ1位と、勝負強い打撃で活躍した。怪我による離脱を除けば、ほぼ不動のレギュラーを手中にしている。
2007年、目標をシーズン通しての出場、50本塁打とした。前年に続きアメリカアリゾナ州で始動。嶋、吉田圭と共に自主トレを行った。怪我の間に13%に上がっていた体脂肪を9%に戻し、また1日6食療法で今回は92kgに減量した。後半戦は骨棘による肘の痛みなどもありながら全試合出場を果たし、リーグ打撃5位と好成績を収めた。シーズンで長打率.500を超えた右打者で三振が二桁で済んだ打者はセリーグでは栗原だけである[1]。勝利打点11は前田智徳、新井貴浩の8を抜きチーム1位と、勝利に貢献した。また左右どちらでも打率3割越えと右左での対戦でも苦にしなかった。
長打力が魅力のスラッガーにしては悪球打ちも多く、選球眼に粗が見られる事もある。変化球の対応は元来うまく、近年は速いストレートへの対応力もさらに向上した。逆方向へのシャープな打撃も多く、コンスタントに広角に長打を打てる器用さとパワーを持ち合わせ、スイングミスの少ない打者でもある。
メジャー志向が強く、将来的にポスティングでの渡米を訴えている[2]。
背番号
年度別打撃成績
年度 | 球団 | 背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
失 策 |
年 俸 |
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2002年 | 広島 | 50 | 10 | 23 | 22 | 2 | 4 | 2 | 0 | 1 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 7 | 0 | .182 | 2 | 540万円 |
2003年 | 26 | 77 | 76 | 7 | 21 | 1 | 0 | 3 | 31 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 15 | 1 | .276 | 3 | 600万円 | ||
2004年 | 90 | 282 | 270 | 26 | 72 | 7 | 1 | 11 | 114 | 32 | 2 | 1 | 1 | 1 | 8 | 2 | 60 | 5 | .267 | 7 | 750万円 | ||
2005年 | 77 | 274 | 254 | 31 | 82 | 16 | 0 | 15 | 143 | 43 | 0 | 1 | 1 | 1 | 17 | 1 | 63 | 12 | .323 | 5 | 1000万円 | ||
2006年 | 5 | 101 | 397 | 373 | 44 | 110 | 19 | 0 | 20 | 189 | 69 | 2 | 1 | 0 | 3 | 21 | 0 | 90 | 7 | .295 | 9 | 1700万円 | |
2007年 | 144 | 622 | 565 | 77 | 175 | 37 | 1 | 25 | 289 | 92 | 3 | 4 | 0 | 6 | 46 | 3 | 94 | 13 | .310 | 8 | 2800万円 | ||
通算成績 | 448 | 1675 | 1560 | 187 | 464 | 82 | 2 | 75 | 775 | 243 | 8 | 7 | 2 | 11 | 93 | 7 | 329 | 38 | .297 | 34 |
経歴
エピソード
●中学時代のポジションは投手。高校から内野手に転向した。
●実家は天童市山口の焼肉店﹁マルタイ﹂。吹き抜けのエントランスには巨大なポスターが飾られており、国道48号沿線であるため、よく目立っている。
●野人のようなワイルドな風貌だが、笑顔と人懐っこく謙虚な性格など野球選手としては人柄もいい。また、口癖は﹁そーですね﹂である。
●アッパースウィングでありながらプルヒッターでは無く、同じ東北出身の落合博満のように、バットのヘッドを内から外に投げ出すような﹁インサイドアウト打法﹂に打撃の手本とした。これは圧倒的なスウィングスピードと高い技術を必要とするが、栗原はこれをまだ少年野球の頃から取り組むなど、あっけらかんなように見えて野球論なども深い。
●プロ入団時から、すでに並外れた筋力で、当時チーム内でも特に鉄の体をしていた金本知憲︵現阪神︶や浅井樹︵現打撃コーチ︶らに匹敵する数値で周囲を驚かせた︵高校3年時に計測した数値は背筋力280キロ、スクワット330キロ、ベンチプレス120キロ︶。また50mを6.0秒︵100m11秒7︶で走るなどパワーだけでなく走れる選手としてスカウトから評価された。
●2004年10月2日の阪神戦で、同点の9回裏2死2、3塁。栗原は2-3からハーフスイングで空振り三振。しかし、この投球をキャッチャーが後ろへ逸らし、3塁走者であった嶋がホームインしたのだが、栗原が走っておらず一塁アウト。幻のサヨナラ勝ちとなった︵試合は引き分け︶。バットに当たった感触があったらしく、本人は﹁ファールだと思った﹂と主張したが、当時の山本監督に悪い印象がついてしまい、次の日に登録抹消。残りの数試合は若手主体の打線で戦ったにも関わらず試合に出されなかった不遇があった。
●2004年末、カープのホームランガールと結婚し、翌7月女児誕生、同12月に女児を伴い妻と披露宴を挙げた。
●広島に入団した2000年から2002年まで日本の現役プロ野球選手で唯一の山形県出身選手だった。2003年に高橋敏郎がヤクルトに入団して以降、2008年現在では山形県出身の現役選手は栗原を含め4名まで増えた。
●2004年には初めて地元山形県野球場での横浜戦︵横浜主催試合︶で2試合ともスタメンだったが、地元の大声援が逆にプレッシャーとなり、全くいい所が無かった。そして最後の打席は当時不調でずっと控えに甘んじていた新井を代打に出された。
●現在でも地元に近い宮城球場では関係者が大勢かけつけるためか、あまり成績が良くない。
●実力的に2003年頃から一軍に定着、2004年は新井よりスタメンになる事も多かった。一気にレギュラー定着かと思われた2005年は自身のケガにより出遅れ、その間に開幕スタメンでは無かった新井がホームラン王になるなどの大活躍。そして、野村とサード、ファーストのポジションを争う事が多かったため、スタメン定着は遅れた。
●2007年9月13日に、当時驚異的なストレートで絶対的なクローザーとして被本塁打とは無縁であった阪神の藤川球児からレフトスタンド中段に見事ホームランを放つ。9月にも関わらず2007年度の藤川が浴びた2本目の本塁打だった。ちなみにプロ入り初ヒット初ホームランの相手も藤川︵ただし、この頃の藤川はまだ実力的には並の若手投手だった︶。
●若い頃は脱臼癖があって2軍の試合でダイビングキャッチを試みた時に肩が抜けてしまい、当時の2軍首脳陣からダイビング禁止令が出るなど、その圧倒的なパワーを誇る体とは裏腹に、やや怪我しやすい体質でもある。
●その風貌と名前をもじりスポーツ新聞では以前、"クリ原人"と書かれていたが、2006年のニックネームを募集で"コング︵栗原︶"に決まった。2005年のホームランキング・新井貴浩とあわせてキングコング砲と呼ばれていた。
●阪神からの交換トレードで移籍してきた喜田剛とは顔が似ていてファーム時代も重なるため、ファームの頃には野球ファンから栗原本人、もしくは兄弟かとよく間違われると喜田が語っていた。
●2006年からアリゾナのアスリート・パフォーマンスという施設で例年約1ヶ月間トレーニングに励んでおり、3年目の2008年は地元局の広島ホームテレビ︵﹁北斗晶の鬼嫁運動記者倶楽部﹂#38/2008年2月2日放送分︶が初めてその施設に潜入することに成功。日本のテレビ局としても初の自主トレ様子を放送した。