根岸友山
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Negishi_Yuzann.jpg/200px-Negishi_Yuzann.jpg)
生涯
1810年︵文化6年︶豪農根岸信保の長男として、武蔵国大里郡甲山村︵現・熊谷市冑山︶に生まれる[1]。1833年︵天保4年︶寺子屋三余堂を開き[1]、1835年︵天保6年︶剣術道場振武所を開く[1]。のちに剣術は千葉周作に学んだ[1]。1839年︵天保10年︶の蓑負騒動に加担したため、1841年︵天保12年︶に江戸十里四方追放となる[1]。1855年︵安政2年︶甲山村に戻る[1]。
1863年︵文久3年︶、将軍・徳川家茂上洛に伴い江戸幕府によって組織された浪士組に参加[1]。近藤勇、芹沢鴨らとともに京都に残る。その後、遠藤丈庵、清水五一らとともに﹁伊勢参詣﹂を理由に壬生浪士組を脱走して江戸に戻り、同年5月19日に庄内藩新徴組取締役︵庄内藩と新徴組の連絡係︶に就任するがすぐに退任。以後は討幕の意志を固めた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が負けると盛大に祝ったという[要出典]。1866年︵慶応2年︶武州一揆により自宅が襲われた[1]。
1868年︵明治元年︶勤王論を説く﹃吐血論﹄を刊行[1]。著書中で、当時処刑に対して同情を集めていた近藤勇を痛烈に批判する[要出典]。
1890年︵明治23年︶12月3日、死去[1]。享年82。墓は冑山共同墓地︵埼玉県熊谷市︶にある。
くまがや市商工会による友山まつりが行われている[2]。
演じた俳優
出典
関連項目
外部リンク
- 根岸友山 | 熊谷デジタルミュージアム - 熊谷市立江南文化財センター
- 冑山共同墓地
- 根岸家長屋門