「楠山正雄」の版間の差分
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== 生涯 ==
[[東京府]][[京橋区]][[銀座]]にて、[[印刷会社]]の子供として出生するが、間もなく生みの父親が死亡した。後に母親が再婚するが、再婚相手の起こした不祥事から会社は潰れて苦しい家計に追われることになり、親戚の家を盥回しにされるなど、前途多難な少年時代を送る。この幼少期間に、母方の祖母に[[歌舞伎]]の舞台を連れて行ってもらったことを機に演劇に関心を持ち始める。12歳の時に叔父に引き取られ、彼を医学の道へ進ませるべく叔父に強く勧められて[[獨逸学協会学校]]へ入学し、[[ドイツ]]の学問や外国語力を身に付ける。しかし、かねてより文学を志していた正雄は医学に全く関心はなく、やがて進路上の相違から叔父との間に亀裂が生じ、当時既に再婚相手と縁を切っていた母親と再び一緒に暮らした<ref> ﹃楠山正雄の戦中・戦後日記 辞典編集・演劇・童話の仕事を誠実に追う﹄、242-246頁、冨山房、2010年</ref>。 [[ファイル:Grave of Masao Kusuyama.jpg|サムネイル|[[多磨霊園]]にある楠山家の墓]]
母親との暮らしを再開した後、[[國學院]]を経て、1902年、[[東京専門学校]]︵現[[早稲田大学]]︶に入学、1906年に英文科 当時は主に新聞や雑誌などで日本の演劇に関する評論を執筆、同じく恩師の[[島村抱月]]が設立した[[芸術座]]のメンバーとして幾つか台本を手掛けたほか、母校の早稲田大学でも近代演劇に関する授業を受け持つなどしていた。しかし、抱月の死去と看板女優の[[松井須磨子]]の自殺で1919年に劇団が崩壊してからは、[[1937年]]に劇評を再開するまで演劇界からは長らく距離を置くようになる。 [[1915年]]に、冨山房で[[児童書]]の翻訳の[[公正]]係を担当したことを機に、児童文学の編集・[[翻訳]]・再話を関わるようになり、﹃模範家庭文庫﹄﹃画とお話の本﹄などの[[全集]]シリーズや[[アンソロジー]]を編纂し、自らも創作に携わった。その過程で、[[鈴木三重吉]]が立ち上げた﹃[[赤い鳥]]﹄にも参与し、日本のみならず様々な国の[[童話]]の邦訳・再話作品を掲載した。[[第二次世界大戦]]が近づくと、主に日本国内の[[おとぎ話]]や[[神話]]・[[伝説]]の再話に専念していった。戦後は、再び海外の児童文学の翻訳業に着手し始めたが、[[癌]]により66歳で息を引き取った。▼ ▲[[1915年]]に、冨山房で[[児童書]] 曽祖父楠山孝一郎は、[[成島柳北]]の兄。したがって、[[森繁久弥]]とも縁戚にあたる。
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==脚注==
<references />
==参考文献==
*「新潮日本人名辞典」[[新潮社]]、1991年。ISBN 4-10-730210-5
*「日本児童文学大系 第11巻 楠山正雄・沖野岩三郎・宮原晃一郎集」[[ほるぷ出版]]、1978年
== 外部リンク ==
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