「歌舞伎」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m 124.146.98.53 (会話) による版を 150.249.195.15 による版へ巻き戻し タグ: 巻き戻し |
Yoroyoro717 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
57行目:
[[File:Toshusai Sharaku- Otani Oniji, 1794.jpg|thumb|200px|left|三代目大谷鬼次(二代目[[中村仲蔵]])の江戸兵衛、寛政六年五月、江戸河原崎座上演『恋女房染分手綱』(1794年)]]
歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである<ref name="kouza4">国立劇場﹃日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇﹄淡交社、2009年、ISBN 9784473035301、歌舞伎の発展II、p241~p242</ref>。享保3年︵1718年︶、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる<ref name="kouza4" /><ref group="注">ここでは﹃日本の伝統芸能講座 舞踊・演劇﹄の記述に従ったが、﹁日本大百科全書︵小学館、歌舞伎の項、歌舞伎の歴史、第2期︶では屋根がついたのは享保2年の事になっている。</ref>。これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった<ref name="kouza4" />。また、享保年間には'''[[花道]]'''が演技する場所として使われるようになり<ref name="kouza4" /><ref group="注">日本大百科全書︵小学館、歌舞伎の項、歌舞伎の歴史、第2期︶によれば1666年の段階で歩み板が客席を貫くように設置された。</ref>、<!--同じく享保年間には-->﹁'''せり上げ'''﹂が使われ始め<ref name="kouza4" />、'''[[廻り舞台]]'''もおそらくこの時期<!--享保年間-->に使われ始めた<ref name="kouza4" />。宝暦年間の大阪では[[並木正三]]が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする<ref name="kouza4" /><ref>日本大百科全書︵小学館、回り舞台の項︶</ref>など、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた<ref name="kouza4" />。これらの工夫は江戸でも取り入れられた<ref name="kouza4" />。こうして歌舞伎は花道によってほかの演劇には見られないような二次元性︵奥行き︶を、[[迫|迫り]]によって三次元性︵高さ︶を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。 作品面では'''趣向取り・狂言取り'''の手法が18世紀から本格化した<ref name="iwashin3" />。これらは17世紀にもすでに行われていたが、17世紀時点では特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になったのである<ref name="iwashin3" />。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる<ref name="iwashin3" />。 251行目:
=== 舞台機構 ===
==== 廻り舞台 ====
'''[[廻り舞台]]'''︵まわりぶたい︶は舞台中央にあって、水平に回転する舞台である。手前側と向こう側に2つの場面の装置を仕込んでおき、回転させることによって素早く場面転換ができる。通常は役者が舞台に乗ったままの状態で、装置ごと回す。上演中であっても裏側に回った方の装置をこわし、さらに次の場面の装置を仕込むことができる。廻り舞台の回転は歌舞伎の見せ場のひとつで、照明を消さず幕を開けたまま廻り舞台を回転させ、場面転換を観客に印象づけることができる。この手法を'''明転'''︵あかてん︶という。また、たとえば悪だくみをたくらむ場面とその被害者宅の2つを廻り舞台の上に乗せ、一方から他方への転換を見せ、次に逆回転させて元の場面に戻るというようなことができる<ref group="注">例えば[[東海道四谷怪談]]</ref>。これを俗に﹁'''行って来い'''﹂といい、場面が戻るとともに時間も戻るかのように感じられるため、2つの場面の同時性を強く表現できる。 ﹃佐倉義民伝﹄の子別れ、﹃入谷﹄などのように、少しだけ廻して建物の横などを見せることもある。半廻しという。歌舞伎以外の芝居では装置は通常、表側だけしか作らないが、歌舞伎ではこのように厚みのある装置を組むことがある。ときには裏側まで作る。 |