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'''水落 露石'''︵みずおち ろせき、[[1872年]][[4月18日]]︵[[明治]]5年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]︶ - [[1919年]]︵[[大正]]8年︶[[4月10日]]︶は、 == 経歴 ==
1872年︵明治5年︶に[[大阪府]][[安土町]]︵現在の[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]、いわゆる[[船場 (大阪市)|船場]]にあたる︶の裕福な[[船場商家|商家]]に生まれる。府立大阪商業学校︵のちの[[大阪商科大学]]、現在の[[大阪市立大学]]︶を経て、[[泊園書院]]︵現・ [[関西大学]]︶で[[藤沢南岳]]に漢学を学ぶ<ref>[http://www.db1.csac.kansai-u.ac.jp/hakuen/syoin/retsuden060.html 水落露石︵みずおち・ろせき 1872-1919︶]関西大学 東西学術研究所 2020年6月18日閲覧</ref>。その頃から[[俳句]]を始め、[[日本派]]の[[正岡子規]]に師事。東京の子規庵句会、松山の松風会に継いで3番目となる日本派の拠点、京阪満月会を興す。京阪満月会は[[寒川鼠骨]]、[[中川四明]]ら京都や大阪の日本派俳人を中心に拠った。しかしわずか1年で露石は地元の大阪で京阪満月会とは別に大阪満月会を興し、それに大阪の俳人たち、[[松瀬青々]]、[[野田別天楼]]、[[青木月斗]]らも続いた。以降は大阪俳壇の重鎮として子規を助け、[[与謝蕪村]]の研究家としても、蒐集した膨大な蕪村の原稿を﹃蕪村遺稿﹄︵表紙は[[富岡鉄斎]]︶として出版した。豊富な資金力から、子規亡き後を引き継いだ[[高浜虚子]]の﹃[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]﹄発行に金銭的援助をし続けた。 == 句集・著作 ==
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*[http://kaikoh-web.sakura.ne.jp/WordPress/ 自由律俳句結社「海紅」]
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[[category:19世紀日本の俳人]]
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