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﹁戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである﹂として[[軍国主義]]者から一転して[[平和主義]]者に転じ反戦・平和論を説いた。大正10年︵[[1921年]]︶に﹃[[東京日日新聞]]﹄に連載した﹁軍人心理﹂で軍人にも[[参政権]]︵[[選挙権]]︶を与えよと書いたことが[[海軍刑法]]に触れ[[謹慎]]処分を受ける。謹慎最終日に加藤友三郎の意を受けて野村吉三郎が海軍残留を促すが、職業と思想の乖離への葛藤や、軍に所属しているままでは思うように執筆できないことなどから、退役し評論家としての道を進む。 ワシントン会議前後より、﹃[[中央公論]]﹄などの大手総合雑誌を中心として、矢継ぎ早に平和論・軍縮論を発表。大正12年︵[[1923年]]︶、軍部が﹃[[新国防方針]]﹄︵米国を[[仮想敵国]]としたもの︶を奏上、それをスクープした新聞記事をもとに、日米戦争を分析し、日本の敗北を断言した﹃新国防方針の解剖﹄を発表。アメリカのメディアにも注目される。 昭和5年︵[[1930年]]︶、日米戦の[[架空戦記|未来戦記]]﹃海と空﹄を刊行。空襲を受ける東京を﹁逃げ惑ふ百万の残留市民父子夫婦 乱離混交 悲鳴の声﹂﹁跡はただ灰の町 焦土の町 死骸の町﹂と描写した。昭和6年︵[[1931年]]︶、[[関東軍]]が[[満州]]を制圧し、[[傀儡政権]][[満州国]]を建国、政府・軍部のみならず130社以上の新聞社が歓迎の共同宣言した翌年、﹃海と空﹄を膨らませた﹃打開か破滅か・興亡の此一戦﹄を発刊。﹁日本の満州国承認は、[[国際連盟]]を驚愕せしめ米国を憤慨せしめ、中国を悶殺せしめた﹂等、満州問題を論じた部分によって発売禁止となる。 71行目:
;『[[水野広徳]]著作集』(全8巻)
:[[粟屋憲太郎]]、[[前坂俊之]]、大内信也監修、[[雄山閣出版]] 平成7年︵[[1995年]]︶。当初は全10巻の予定であったが全8巻に規模縮小され︵﹁水野広徳の書誌学﹂石渡幸二︶、[[言論統制]]が激しくなってから書いた水野の最後の単行本である[[戦国武将]]の評伝﹃日本名将論﹄が収録されておらず、全集ではなく著作集として刊行になった。水野の文名を一躍天下に知らしめた日露戦記﹃此一戦﹄・﹃戦影﹄︵後に発禁︶、日米未来戦記﹃次の一戦﹄・﹃興亡の此一戦﹄︵発禁︶、﹃自伝﹄﹃日記﹄などのほか、新聞、﹃[[中央公論]]﹄、﹃[[改造]]﹄などに発表した反戦平和、軍縮、日米非戦論などの論考の大部分を網羅した唯一の著作集。 == 評価 ==
古典的研究としては、戦後直後に水野の伝記を著した[[松下芳男]]<Ref>松下芳男﹃水野広徳﹄︵四洲社、1950年︶</Ref>。日本における国際平和主義の伝統を水野に見出し、[[統帥権の独立]]を否定し、[[アジア太平洋戦争]]の帰結をいち早く予言した人物として高く評価する[[家永三郎]]の研究が代表的である<Ref>家永三郎﹁水野広徳の反戦平和思想﹂︵﹃思想﹄第519号、1967年︶</Ref>。また、1980年代に入ると、﹁郷土の偉人﹂として再発掘され、地方史の分野で再評価が進んだ。 [[1990]]年代から[[2000]]年代に入ると、[[粟屋憲太郎]]、[[前坂俊之]]を中心に編纂された﹃水野広徳著作集﹄刊行に前後して、[[宮本盛太郎]]、[[関静雄]]、福島良一らによって、水野の﹁平和主義者﹂への転身過程を中心とした実証的な研究が進展した。宮本は、水野の﹁平和主義者﹂転身は、それほど劇的なものではないとして、転身前と後の連続性を指摘し、水野の平和論を日本国憲法の源流の一つとして評価する<Ref>宮本盛太郎﹁水野広徳における思想の転回﹂︵宮本盛太郎ほか編﹃近代日本政治思想史発掘﹄︿風行社、1993年﹀︶</Ref>。関は、ワシントン会議前後の言説分析から、国際秩序維持の制度的保障を求めつつ、戦争の危険と軍備負担をこれ以上増大させない、むしろなるべく軽減する方策を模索する﹁相対的軍備拡張的制限論者﹂と定義した<Ref>関静雄﹁水野広徳の対米八割論﹂︵同﹃大正外交﹄︿ミネルヴァ書房、2001年﹀︶</Ref>。福島は、水野が﹁国防力﹂=﹁国力﹂の涵養こそが最優先課題と認識し、国民生活の向上実現という実利的判断を通じて、軍縮への国民的支持を調達しようとしたこと。そのために軍備を﹁軍人の専檀﹂から﹁国民の手﹂に解放することを目的とした民本主義に基づく、国民の意思を政治に反映させるための普選即行論と政党内閣制支持の構造を明らかにした<Ref>福島良一﹁水野広徳の軍備観の変容―﹃戦争﹄回避と﹃敗戦﹄回避の狭間で―﹂︵﹃埼玉学園大学紀要 人間学部篇﹄第4号、2004年︶、同﹁水野広徳と軍備撤廃論﹂︵﹃埼玉学園大学紀要 人間学部篇﹄第5号、2005年︶、同﹁水野広徳の﹃国防﹄認識―軍備縮小との関わりを中心に―﹂︵﹃埼玉学園大学紀要 人間学部篇﹄第7号、2007年︶</Ref>。 近年では、それまでの研究が、水野を「平和主義者」とアプリオリに規定した上で、「平和主義」転身過程前後に分析を集中していたことに対し、水野の平和主義の限界を捉えようとする研究が現れはじめている<Ref>田中智大「「反骨」の平和主義者」水野広徳像の再検討 ―軍縮論の隘路と崩壊にみる水野広徳の諦念―」(『人文学論叢』第15号、2013年)</Ref>。
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
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== 参考文献 ==
* [[木村久邇典]] 『帝国軍人の反戦:水野広徳と桜井忠温』 朝日新聞社、1993年
* 宮本盛太郎ほか編『近代日本政治思想史発掘』風行社、1993年。
* 前坂俊之編『海軍大佐の反戦 水野広徳』雄山閣、1993年。
* 家永三郎編『日本平和論大系7 水野広徳・松下芳男・美濃部達吉』日本図書センター、1993年。
* 河田宏『第一次世界大戦と水野広徳』三一書房、1996年。
* 大内信也『帝国主義日本にNOと言った軍人 水野広徳』雄山閣、1997年。
* 関静雄『大正外交』ミネルヴァ書房、2001年。
* 曽我部泰三郎『二十世紀の平和論者 水野広徳海軍大佐』元就出版社、2004年。
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