「江戸時代の三貨制度」の版間の差分
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また貨幣経済の拡大に伴い銭貨では取引に限界が生じ、また銭貨は長年の流通により[[鐚銭]]が多くを占めるようになったことから[[撰銭]]の慣行が出始めたため、[[貴金属]]による価値の裏付のある金貨および銀貨の需要が高まったとの説もある<ref>西川裕一 『金融研究 江戸期三貨制度の萌芽−中世から近世への貨幣経済の連続性』 [[日本銀行金融研究所]]、[[1999年]] [http://www.imes.boj.or.jp/japanese/zenbun99/yoyaku/kk18-4-3.html 金融研究]</ref>。
家康がまず金貨および銀貨の整備を行ったのは、戦国大名にとって[[金鉱山|金山]]および[[銀山]]を手中に納めることが戦力を増強し天下を掌握する重要な戦略の一つであったという背景がある。そのため銭貨の整備は約35年遅れることとなり、渡来銭を駆逐し寛永通寳が充分に行き渡ったのは 古くは[[760年]]に恵美押勝︵[[藤原仲麻呂]]︶が鋳造を命じた[[万年通宝|萬年通寳]]、[[大平元宝|大平元寳]]および[[開基勝宝|開基勝寳]]があり、これを三貨と呼ぶこともあるが<ref>利光三津夫 ﹃押勝の三貨﹄ [[慶應通信]]、[[1983年]]</ref>、貨幣経済の発達が充分でなかった時代にあって、大平元寳および開基勝寳は銅銭の名目価値を高く設定するための金貨および銀貨であり一般に流通させる目的のものではなかった<ref>[[#Imamura2001|今村(2001), p38-40.]]</ref>。 48行目:
なお大判は金一枚(四十四匁)を単位とするもので恩賞および贈答に用いられるものであり、本来通貨として一般流通する目的のものではなかったが、市場に流れることもあり相場に応じて取引された<ref name="Mikami1996-71" />。
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計算上の金貨の通貨単位の表し方として、﹁[[永]]~文﹂というものもあり、永一文は1/1000両に相当し、朱未満の端数の計算や、永高による年貢額の表示に用いられた。この﹁永﹂の名称は寛永通宝発行以前の時代に流通していた[[永楽通宝]]の名残である。幕府の発行した1朱未満の金貨単位の金属貨幣は存在しないが、[[藩札]]では1朱未満の金貨単位の金額が﹁永銭~文﹂の形で表示された例がある︵[[地方貨幣]]の金属貨幣では、﹁永銭~文﹂の形ではないが、1朱未満の金貨単位の金額としては﹁[[琉球通宝]]半朱﹂の例がある︶。 == 銀 ==
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銀貨は量目不定の丁銀および豆板銀と、天秤で目方を定めて通用する秤量貨幣が基本通貨であり、通貨単位は[[天秤]]秤による測定値、すなわち質量単位である、[[貫]]︵かん︶、[[匁]]︵もんめ︶および分︵ふん︶が用いられた。銀1貫は銀1000匁、銀1匁は銀10分である。また﹁銀20匁﹂など、20匁以上で下一桁が0である場合、﹁銀20目﹂と表すのが一般的であった。 特に丁銀は裸銀として使用されることはほとんどなく<ref>[[#Taya1963|田谷(1963), p124-143.]]</ref><ref>[[#Mikami1996|三上(1996), p214-219.]]</ref><ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p117-118.]]</ref>、500匁毎に和紙で包んだ[[包銀]]として用いられることが多かった<ref name="taya">田谷博吉 ﹃近世銀座の研究﹄ [[吉川弘文館]]、[[1963年]]</ref>。一方豆板銀は携帯に便利な銀秤を用いて取引に用いられることもしばしばであった<ref name="Zoheikyoku1940-39">[[#Zoheikyoku1940|造幣局(1940), p39.]]</ref>。 明和年間に登場した南鐐二朱銀や、一分銀、一朱銀といった貨幣は、材質上は銀貨でありながら、﹁銀~匁﹂という[[銀目]]を直接表すものではなく、金貨の単位で表された計数貨幣である。こうした金貨単位の計数銀貨の台頭以降、丁銀および豆板銀の発行は次第に衰退し、銀目取引は[[手形]]および[[藩札]]に中心が移ってい 銀貨も中世の頃から[[灰吹銀]]およびそれに極印を打った極印銀が目方に応じて高額取引に使用され、金貨と同様にこれらを打ち伸ばしたのであるが、金と異なり不純物の関係で銀は脆く、薄い板に延ばそうとするとひび割れるため、[[譲葉]]あるいは[[ナマコ]]型の丁銀となった。このような丁銀、および豆板銀︵金貨単位の計数銀貨の登場以降はそれも︶の鋳造を行う[[銀座 (歴史)|銀座]]は秀吉が[[堺]]、[[京都]]の銀吹屋を集めて[[大坂]]に常是座を設けたことにより始まったとされる<ref>[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p96-98.]]</ref>。 また[[灰吹法]]の導入により[[16世紀]]後半から[[石見銀山]]を始めとして日本各地で銀の産出が増大し、さらに[[生糸]]などの貿易先として重要であった中国において[[銀錠]]が大口取引に使用されていたことも影響して、銀が大坂を中心とする商人により盛んに使用されるようになった。家康はこのような銀を取引の中心とする商人の力を無視することができず、金貨の使用を強制するよりは既存の体制を継承して貨幣制度の整備を進める道を選択した<ref name="#1">[[#Taya1963|田谷(1963), p124-131.]]</ref>。 100 ⟶ 102行目:
金貨および銀貨の鋳造は[[天領]]の金山︵[[佐渡金山]]︶および銀山︵石見銀山、[[生野銀山]]など︶から産出される地金を金座および銀座が預り、貨幣に鋳造し[[勘定所]]に納め、その一部を分一金あるいは分一銀として金座および銀座が受取る御用達形式と、金座人あるいは銀座人が自己責任で金銀地金を買い集め貨幣に鋳造し一部を[[運上]]として幕府に納める自家営業方式があった<ref name="Taya1963-38">[[#Taya1963|田谷(1963), p38-40.]]</ref><ref name="Nishiwaki1999-98">[[#Nishiwaki1999|瀧澤・西脇(1999), p98-99.]]</ref>。銭座については銭貨材料を自己責任で買い集めて銭貨を鋳造して両替屋に売却し、一部を幕府に運上するというものであった<ref name="Mikami1996-93" />。 慶長金銀は小判師あるいは[[銀細工師]]らが自宅で貨幣の形に加工したものを後藤役所あるいは常是役所に持参し品位、量目 請負い形式であった銭座も明和2年︵[[1765年]]︶以降、金座および銀座の監督下に置かれ、幕府による統制が強化された。さらに[[松平定信]]による[[寛政の改革]]の一環として金座では寛政2年︵[[1790年]]︶頃、銀座では寛政12年︵[[1800年]]︶に粛正が実施され、幕府による統制が強化された<ref>[[#Kobata1958|小葉田(1958), p223.]]</ref>。 795 ⟶ 797行目:
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[[嘉永]]6年︵[[1853年]]︶、[[浦賀]]沖の[[黒船来航]]により幕府は開港を迫られ、[[日米和親条約]]による[[安政]]6年︵1859年︶の[[横浜港]]の開港のため、日本貨幣と米国貨幣の交換比率の交渉が行われた。幕府側の双替方式の1ドルを1分で交換するという要求に対し、[[タウンゼント・ハリス|ハリス]]の同質同量による1ドルを3分で交換するという要求が通ることになった。幕府側は1ドル銀貨の半分の量目に当たる[[二朱銀]]を発行して抵抗したが、二朱銀は発行量が極小で開港場でしか通用しないものであったため、米国大使らの反発に遭い撤回することとなった。この結果、一分銀と小判との間の擬似[[金銀比価]]1:5は欧米の金銀比価1:15に対し著しく金安であったため短期間のうちに また開港時に幕府側は、米国大使らの1ドル銀貨の一分銀への両替要求に充分応じられなかった事から、慶應2年︵[[1866年]]︶の[[改税約書]]において幕府は国外から持ち込まれる金貨、銀貨および地金を日本貨幣に鋳造することを請求できる自由[[造幣局]]の設立を確約することとなった<ref>[[#Hisamitsu1976|久光(1976), p166-168.]]</ref>。 |