「江戸時代」の版間の差分
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農村では[[名主]]、[[庄屋]]が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士は農村にいなかったとされる︵[[地方知行制]]を温存した仙台藩など例外はある︶。この[[名主]]、[[庄屋]]は昔から土地を所有している有力農民や土着した武士の末裔などがなる場合が多く、[[苗字帯刀]]あるいは諸役御免の特権を持つ者や郷士に列せられる者も多かった。また大きな村では複数名の名主、庄屋が[[寄合]]を開いて村を治めた。彼らは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。諸藩により違いはあるものの、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝え、一揆の際には農村側に立って先導するような百姓側の代表としての意識の強いものと、支配機構の末端を担う下級官吏の面が強く一揆などの際に標的となる場合もあった。困窮した零細農民の土地を集積するなど地主的な側面の強くなる近世後期には後者の面を持つものが多くなった。 読み書きを中心とした[[寺子屋]]や[[私塾]]、農村部における[[郷学]]︵郷校︶が設置され、日本人の[[識字率]]は高かった<ref>{{Cite web |title=江戸時代の﹁日本の教育水準﹂、実は﹁世界最高ランク﹂だった…!︵播田 安弘︶ |url=https://gendai.media/articles/-/105988 |website=ブルーバックス {{!}} 講談社 |access-date=2024-05-12 |language=ja}}</ref>。また岡山藩の[[閑谷学校]]を嚆矢として、あちこちの藩・旗本が郷民でも入校できる学校を作った。このようなことが[[最上徳内]]や[[間宮林蔵]]などの農村出身者の活躍に一役買っているといえる。 幕府により大名の大幅な配置換えが実施された江戸時代は、同時に日本中で活発な文化交流が行われた時代でもあった。たとえば、三河の[[水野氏]]が備後福山に立藩したため三河の言語が備後地域に流入し、福山地方の方言に三河方言が混ざっている。また、信濃を統治していた[[仙石氏]]が但馬出石に転封した際、信濃の[[蕎麦]]を出石に持ち込んだため、[[出石そば]]が発祥した。このような物の交流は各地で起こっているが、これが現在の名産物になっている地域も多い。 213行目:
* [[大塩平八郎の乱]]
* [[剣術道場]]
{{colend}}江戸時代には遠方の[[寺社]]への巡礼、参拝が盛んになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が[[旅行]]するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に[[歓楽街]]ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、[[五街道]]や[[宿場]]町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、[[西国三十三所]]や[[四国八十八箇所]]巡礼などがある。また、江戸時代末期には、[[天理教]]や[[金光教]]などの神道系の新宗教が現れている。▼ ▲江戸時代には遠方の[[寺社]]への巡礼、参拝が盛んになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が[[旅行]]するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に[[歓楽街]]ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、[[五街道]]や[[宿場]]町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、[[西国三十三所]]や[[四国八十八箇所]]巡礼などがある。また、江戸時代末期には、[[天理教]]や[[金光教]]などの神道系の新宗教が現れている。 身分制度は大きく分けると、[[武士]]などの支配階級と、被支配階級である[[町人]]・[[百姓]]・水呑・借家人などがあったが、有力な町人や百姓が武士の株を買い取ることもあるなど、身分間にはある程度の流動性もあった。これらのほか、[[公家]]、[[検校]]、役者、神官、[[長吏 (賎民)|長吏]]、[[穢多]]、[[非人]]などさまざまな階級があったが、別々の地域で同じ名前で呼ばれる階級が事実上別の実態を持っていたり、ある地域では別の階級とみなされている階級がほかの地域では同一視されているなど、地域・時期により錯綜した状況を呈する。被差別階級とされる長吏、穢多、非人などは皮革の製造加工、[[死刑]]執行人・牛馬の死体の掃除など人の嫌がる仕事を割り当てられ、ほかの階級から差別されたが、それらの職種を独占したために経済的にはある程度安定していた<ref>{{Cite web |title=﹁部落史の見直し﹂と部落問題学習/奈良県公式ホームページ |url=https://www.pref.nara.jp/9206.htm |website=www.pref.nara.jp |access-date=2024-05-12}}</ref>。のちに[[明治維新]]で行われた四民平等政策により、制度的差別は廃止され彼らは[[平民]]となるが、それにより[[死牛馬取得権]]などの[[特権]]を失いかえって困窮する者が多く出た。民間では社会的な差別は依然として残り<ref>{{Cite web |title=明治政府による新しい国づくり |url=https://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/society/kyoutsu/meiji/08_meiji_mibunseido.html |website=gakusyu.shizuoka-c.ed.jp |access-date=2024-05-12}}</ref>、近現代の[[部落解放運動]]につながった︵[[部落問題]]︶。 === 災害 ===
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各地の諸大名は、江戸藩邸や参勤交代の費用を捻出するために自藩産出の米や魚農産物を大阪で売ったため、大阪は諸大名の[[蔵屋敷]]が置かれ、全国の特産品が並び、活況を呈した。また、参勤交代やお手伝い普請で多くの諸大名が街道筋の宿屋・旅籠に泊まったため、経済の流通が活発化したのである。江戸幕府は[[株仲間]]を結成させて特定商人の独占を認めることで商業統制を行おうとした。しかし、実際には江戸時代も後期に入ると、都市・地方ともに新興商人の台頭が始まり、活発な展開を見せるようになる。幕府はこうした経済発展の動きに十分な対応が取れず、物価変動による社会的混乱を鎮められずに幕府が動揺する一因となった。 [[アンガス・マディソン]]によれば<!-- 後述書 pp.195 - 196. -->、[[1820年]]︵[[享保]]年間︶時点の[[GDP]]は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を1とした場合、日本はその1.75倍、[[オランダ]]は0.3倍、[[イギリス]]は2.8倍であり、[[1850年]]になり、アメリカが日本の2倍近くに達する<ref>[[磯田道史]]﹃日本史の内幕﹄ [[中公新書]]、10版2018年、 pp.195 - 196.</ref>。江戸期における1人あたりの生産量は、アメリカの0.15%である<ref>[[高島正憲]]﹃経済成長の日本史﹄2017年</ref>。 対外政策としては幕府は[[海禁]]︵いわゆる[[鎖国]]︶政策を布いていた。しかし、将軍代替りの際に来府した[[朝鮮通信使]]によって清国の動向を、またやはりたびたび来府した[[オランダ商館長]]によって欧州の動向を、ある程度においては把握していたといわれている︵[[オランダ風説書]]︶。たとえば天保の改革を行った老中・[[水野忠邦]]は、清国でアヘン戦争が起こると、ただちに異国船打払令を撤回させているが、これも英国をはじめとした西洋列強の清国に対する外交姿勢を把握していたからこその対処だった。なお、長崎鳴滝に西洋医術の塾︵[[鳴滝塾]]︶を開いた[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]のもとには多数の日本人が修学しており、限られた範囲で西洋人と日本人との交流は行われていた。 264 ⟶ 263行目:
===通貨政策===
{{see also|江戸時代の三貨制度}}江戸幕府は、大量に蓄積された金銀を原資に貨幣制度の改革を行った。幕府創立前の[[1601年]]︵慶長6年︶に[[金座]]︵小判座︶および[[銀座 (歴史)|銀座]]を設立し、[[慶長小判|慶長金]][[慶長丁銀|銀]]の鋳造を命じた。慶長から[[寛永]]期ごろまでは各地の[[金鉱山|金山]]および[[銀山]]の産出が世界有数の規模であり、5代将軍・[[徳川綱吉]]のころまでは江戸城御金蔵の金銀の蓄えも潤沢であった。そして輸入品であった[[永楽銭]]などに代わり、[[1636年]]︵寛永13年︶、[[銭座]]を設けて[[寛永通宝]]などの国内貨幣を鋳造し、流通させた。▼ ▲江戸幕府は、大量に蓄積された金銀を原資に貨幣制度の改革を行った。幕府創立前の[[1601年]]︵慶長6年︶に[[金座]]︵小判座︶および[[銀座 (歴史)|銀座]]を設立し、[[慶長小判|慶長金]][[慶長丁銀|銀]]の鋳造を命じた。慶長から[[寛永]]期ごろまでは各地の[[金鉱山|金山]]および[[銀山]]の産出が世界有数の規模であり、5代将軍・[[徳川綱吉]]のころまでは江戸城御金蔵の金銀の蓄えも潤沢であった。そして輸入品であった[[永楽銭]]などに代わり、[[1636年]]︵寛永13年︶、[[銭座]]を設けて[[寛永通宝]]などの国内貨幣を鋳造し、流通させた。 [[ファイル:Keicho-koban2.jpg|thumb|left|80px|慶長小判]]
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[[ファイル:Ko-kaneitsuho.jpg|thumb|right|80px|寛永通寳]]
また寛永期を過ぎると、金銀の産出に陰りが見え始めたのに対し、[[人口]]が次第に増加し経済が発展して幕府の支出が増大したため財政難に陥るようになり、金銀の備蓄も底が見え始め、[[1695年]]︵元禄8年︶の[[元禄小判|元禄金]][[元禄丁銀|銀]]の発行を発端に、出目獲得および通貨拡大のため品位を低下させる改鋳が行われるようになる<ref>{{Cite web |title=日本貨幣史 本文 - 貨幣博物館 |url=https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/content/ |website=www.imes.boj.or.jp |access-date=2024-05-12}}</ref>。 {{江戸時代の貨幣}}
[[1772年]]︵安永元年︶の南鐐二朱銀発行以降、次第に[[両]]を基軸とする、分、朱の単位を持つ計数銀貨が増加し始め、[[1837年]]︵天保8年︶の[[一分銀]]発行に至って、丁銀のような[[秤量銀貨]]を凌駕するようになり、銀貨は小判の通貨体系に組み込まれることになった。 |