「江藤新平」の版間の差分
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== 評価 ==
*[[鍋島直正|鍋島閑叟]] 「彼は異日有用の器たり。之を斬に処せしむべからず」
*[[大久保利通]] ﹁江藤が自ら作る所の新律に罪按せられたるは、そのすこぶる秦の[[商鞅]]と相似たり。予は江藤の刑名家たるを知る。その弁論の精悍なる、立法の技量に富める、真に商鞅の流亜なり。否あるいは之に駕するものあらん。然れどもまた及ばざる所あり。およそ人自ら固く信ずる所ありて、事を成すも失敗すること少なからず。いわんや自ら信ぜず、徒に人をして信ぜしめんとするにおいて、失敗なきを得んや。江藤の兵を挙げたるは、天下に一信無くして失敗せしなり。彼が兵に将たる能わざるは、自ら能く之を知る。しかして彼が江藤さえ兵を挙げたりとて、天下の人をして之に応ぜしめんと図りしは、拙策なりと為さざる可からず﹂<ref>﹃江藤新平﹄ 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref> *[[板垣退助]] ﹁かくの如き憎悪せられたる点は、その短所にあらずして、実にその長所に在り。すなわち邪にあらずして正なる点に在り。言を換ゆれば、江藤君は余りに正義なりし為に、遂にその奇禍を買うに至りし也﹂<ref>﹃江藤南白﹄[[的野半介]]著</ref> *[[大隈重信]] 「之(江藤)を失ったる国家は更に甚大なる損害であり、不幸であった」<ref>『大隈候昔日談』</ref>
*[[副島種臣]] ﹁江藤新平という男は、ちょっと見ると鈍いような人であった。そこで初めは人に重く見られなかった。その頭角を現したるは維新後である。自分は中野芳蔵から、初めて江藤の人物を紹介され、その後面会して話してみると、なるほど見る所がすこぶる卓越しておる。それでやはり後輩よりも先輩が余計に喜んで、その意見を徹するようになり、次第に引き立てられたのである。頭を擡げてからというものは、めきめきと栄進して、維新後初次の政府にあれだけの地位を得、先輩をも凌ぐばかりの勢力を占めた。江藤がかつて自分にいうたには、﹃私は怒ることがあっても直ぐには怒らぬ。いつも三日ばかり考えてから怒った。即座に怒れば必ず好い結果は無い﹄と話したことがある。それゆえ若い者にはなんだかボンヤリのようにも見られたであろう﹂<ref>﹃江藤新平﹄ 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref> *[[松岡康毅]] 「当時、弁舌家では[[陸奥宗光]]などは台閣中のもっともなるものであったが、それでも江藤に比べれば弁論の重みが違う。かつ條理が明らかで、人を屈服する力があった」<ref>『江藤新平』 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref>
*[[土方久元]]
**「我、維新前後の人物とは知人多し。しかし就中自分が真に豪傑と思う者は西郷南州と江藤新平と二人しかおらぬ」<ref>『佐賀先覚遺聞』 向井弥一著 大正15年</ref>
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**﹁実に何でもよく物を知ってた方で、これには私も始終驚かされてばかりおったものだ。江藤氏は佐賀の[[枝吉神陽]]に経世学を学んだものということである。経世学者であったので、礼のことなぞは一向頓着無く、如何に他人が迷惑しようが一切かまわず、やたらに自分の無理を通そうとした人である。それがためには、好んで理屈をこねくり回したりなどもしたものだ。遂にあんな最後を遂げられたのもこれが原因であろうと思われる﹂<ref>﹃処世の大道﹄P558</ref> **﹁江藤氏はいったん自分がいい出したことは、いかなる場合にも押し通そうとし、腕力に訴えてまでも他人と争い、無理にも自分の意見を行おうとされたもので、時期の到来を待つとか、他人の意見を容れようなどということはまったくなかった方である。大西郷や木戸公などがとても仁愛に富んだ方であったが、江藤氏はこれと正反対でむしろ残忍に傾く性格の持ち主だった。江藤氏は人に接すれば、まず何よりも先にその人の邪悪な点を見抜くように努められ、人の長所を見ることなどは後回しにされたようである。いや、極端にいえば人の長所はほとんどかえりみなかったといっともよいくらいであった。あの佐賀の乱なども、はじめから起こすつもりはなかったろうが、目的のためには手段を選ばぬという主義であったため、ついいつの間にか知らず知らず邪道に踏み込んであんなことになったのであろうと思う。江藤氏のごとき傑出した人物に、このような欠点のあったことは、誠に惜しむべきであったと思う﹂<ref>﹃論語講義﹄</ref> *[[勝海舟]] 「あれは驚いた才物だよ。しかし、ピリピリしておって、実に危ないよ」
== 家族 ==
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