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'''泰範'''︵たいはん、[[宝亀]]9年︵[[778年]]︶?<ref name="seinen">この生年は、承和4年︵837年︶4月5日付僧綱牒︵続々群書類従本﹃東宝記﹄第七︶に﹁年六十﹂とあることから逆算され、従来通説となっていたが、武内孝善﹁泰範の生年をめぐって―承和四年四月五日付僧綱牒の信憑性﹂︵﹃高野山大学論叢﹄37、2002年︶によって信憑性を否定されている。</ref> - 没年不詳<ref name="botunen">武内氏前掲論文は、承和3年の時点ですでに死去していたと推定している。</ref>︶は、[[平安時代]]前期の[[真言宗]]の[[僧]]。[[空海]]の[[空海#十大弟子|十大弟子]]、また四哲の一人とされる。出自については不明であるが、[[近江国|近江]]高島の人と言われる。 [[奈良]][[元興寺]]で[[出家]]した後、[[最澄]]に師事した。[[弘仁]]元年︵[[810年]]︶に最澄と共に比叡山に住持仏法の三章を作り[[寺観]]を定める。弘仁3年6月最澄の病気により[[比叡山]]総別当に任じられるが、山内の紛争︵泰範は﹁自身の不都合により衆僧に迷惑をかけた﹂という理由で最澄に休暇を願い出ている︶により[[近江国]]髙島に隠遁した。 |