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{{Infobox 人物
|氏名 = 浅井 洌<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/浅井%20冽-1637046 |title=コトバンク 浅井 冽 とは(20世紀日本人名事典の解説) |accessdate=2021-02-02 }}</ref>
|ふりがな = あさい れつ<ref name="naganoken">{{Cite book |和書 |url=https://www.pref.nagano.lg.jp/koho/koho/naganoken/documents/2013-01-p01-04webkoho.pdf |title=インターネット版 広報ながのけん 2013年1月発行 Vol. 04 |publisher=長野県 |date=2013-01 |page=1 }}</ref> / きよし{{R|naganoken}}
|画像 =
|画像サイズ =
|画像説明 =
|出生名 = 大岩大三郎
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1849|11|24|
|生誕地 = {{JPN}} [[信濃国]]松本城下<br />(現:[[長野県]][[松本市]])
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1849|11|24|1938|2|27}}
|死没地 =
|墓地 =
|記念碑 =
|住居 =
|国籍 =
|別名 = 浅井継之助勝哉<br />浅井新吉
|民族 =
|市民権 =
|教育 =
|出身校 = [[崇教館]]
|職業 = [[松本藩|松本藩士]]<br />[[長野師範学校|長野県師範学校]]教諭
|活動期間 = [[明治]] - [[昭和]]初期
|雇用者 =
|団体 = [[信濃教育会]]
|代理人 =
|著名な実績 = 長野県歌「[[信濃の国]]」作詞
|業績 =
|流派 =
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|影響を与えたもの =
|活動拠点 =
|肩書き =
|任期 =
|前任者 =
|後任者 =
|配偶者 = 浅井春(1890年死別)
|非婚配偶者 =
|子供 = あり(3男2女)
|親 = 実父:大岩昌言<br />養父:浅井持満
|親戚 =
|コールサイン =
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|補足 =
}}
'''浅井 洌''' == 概要 ==
[[長野県松本深志高等学校|旧制中学]]教員などをへて、[[1886年]]︵[[明治]]19年︶[[長野師範学校]]教諭となる。[[1899年]]︵明治32年︶﹃信濃教育会雑誌﹄に == 生涯 ==
[[1849年]]︵[[嘉永]]2年︶10月10日に[[松本藩]]士大岩昌言︵まさのり︶の三男として生まれる。[[幼名]]を、大三郎、大義といった。[[1861年]]︵[[文久]]元年︶に松本藩士浅井持満の[[養嗣子]]となって [[1869年]]︵ [[明治]]2年︶崇教館の句読掛となり、翌年には藩命で上京し、[[林靏梁]]に師事した。[[1872年]]︵明治5年︶に設置された[[筑摩県|筑摩県学]]で教師を務め、翌[[1873年]]5月に、﹁[[学制]]﹂による第一番小学[[旧開智学校|開智学校]]が開校すると、その[[訓導]]に任じられた。同年秋、[[師範講習所]]に入学して近代教育の知識を得て、[[1874年]]から[[1881年]]まで松本の盛業学校︵のちに出柳学校︶の教師を務める。さらに、1881年4月から[[1886年]]︵明治19年︶8月まで、松本中学校教員として、国語・漢文・歴史を教えた。自宅でも自習学舎という私塾を聞き、[[木下尚江]]︵社会運動家・小説家︶、[[百瀬興政]]︵医師・松本市長︶らが学んだ。 78 ⟶ 59行目:
[[1886年]]︵明治19年︶に、長野県尋常師範学校勤務を命じられ[[長野市|長野]]に移り、漢学・国文・歴史を担当する。松本中学での同僚だった[[志賀重昂]]の影響を受けて[[地理学]]にも関心を深め、[[修学旅行]]で生徒を引率するなど、各地域の見聞も多かった。また、歌道に励み、七五調の長歌をつくるようになった。教員学力試験の検定試験委員にもなり、また﹃信濃名勝詞林﹄の編集に参画して、地理・歴史の知識はさらに深まる。 [[ファイル:長野県庁前 信濃の国 歌碑 (表面).jpg|thumb|290px|[[長野県庁舎]]前に建つ『信濃の国』の歌碑]]
[[1898年]]︵明治31年︶、校長だった[[正木直太郎]]が会長を務めていた[[信濃教育会]]は[[小学校唱歌]]見直しの委員会を作り、﹁小学校唱歌は有益だが、現行の唱歌の中には[[日清戦争]]遂行のために敵愾心をあおるものがあって、今日ではふさわしくなく、また県風に合ったものが望ましい﹂とした。そこで、翌[[1899年]]6月に、信濃教育会は﹃信濃教育会雑誌﹄152号で、新しい唱歌21曲を発表した。この中に、浅井が作詞し、同じ長野県師範学校の音楽教師[[依田弁之助]]が作曲した 1918年に70歳で退職するまで教諭を務め、さらに嘱託として1926年6月まで教壇に立ち、40年間にわたってで長野師範学校の教育に尽くした。1926年7月に松本に帰ると、彼のもとを訪ねる卒業生は後を絶たなかったという。1938年︵[[昭和]]13年︶[[2月27日]]永眠、享年 ▲[[1898年]]︵明治31年︶、校長だった[[正木直太郎]]が会長を務めていた[[信濃教育会]]は[[小学校唱歌]]見直しの委員会を作り、﹁小学校唱歌は有益だが、現行の唱歌の中には[[日清戦争]]遂行のために敵愾心をあおるものがあって、今日ではふさわしくなく、また県風に合ったものが望ましい﹂とした。そこで、翌[[1899年]]6月に、信濃教育会は﹃信濃教育会雑誌﹄152号で、新しい唱歌21曲を発表した。この中に、浅井が作詞し、同じ長野県師範学校の音楽教師[[依田弁之助]]が作曲した﹃信濃の国﹄があった。しかしあまり歌われず、浅井も依田による作曲のあることを知らなかった。そこに依田の後任として、[[北村季晴]]が1899年11月に[[青森県師範学校]]から転任して来た。浅井が北村に﹁作曲を請いてそれを︵女子部生徒の遊戯用として︶運動会の日に発表﹂してから、大いに師範学校学生の受け入れるところとなり、師範学校の卒業生たちが県下各地の教壇に立って﹃信濃の国﹄を教えことから、全県に普及した。その後は、県内各小学校の行事等で歌うことが慣習となった。 ▲1918年に70歳で退職するまで教諭を務め、さらに嘱託として1926年6月まで教壇に立ち、40年間にわたってで長野師範学校の教育に尽くした。1926年7月に松本に帰ると、彼のもとを訪ねる卒業生は後を絶たなかったという。1938年︵[[昭和]]13年︶[[2月27日]]永眠、享年90。 == 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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{{デフォルトソート:あさい れつ}}
[[Category:日本の作詞家]]
[[Category:日本の教育者]]
[[Category:信州大学の教員]]
[[Category:日本の中等教育の教員]]
[[Category:幕末松本藩の人物]]
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