「浅井洌」の版間の差分
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1849|11|24|
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'''浅井 洌'''︵あさい れつ、[[嘉永]]2年[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]︵[[1849年]][[11月24日]]︶ - [[昭和]] == 概要 ==
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[[1898年]]︵明治31年︶、校長だった[[正木直太郎]]が会長を務めていた[[信濃教育会]]は[[小学校唱歌]]見直しの委員会を作り、﹁小学校唱歌は有益だが、現行の唱歌の中には[[日清戦争]]遂行のために敵愾心をあおるものがあって、今日ではふさわしくなく、また県風に合ったものが望ましい﹂とした。そこで、翌[[1899年]]6月に、信濃教育会は﹃信濃教育会雑誌﹄152号で、新しい唱歌21曲を発表した。この中に、浅井が作詞し、同じ長野県師範学校の音楽教師[[依田弁之助]]が作曲した﹃信濃の国﹄があった。しかしあまり歌われず、浅井も依田による作曲のあることを知らなかった。そこに依田の後任として、[[北村季晴]]が1899年11月に[[青森県師範学校]]から転任して来た。浅井が北村に﹁作曲を請いてそれを︵女子部生徒の遊戯用として︶運動会の日に発表﹂してから、大いに師範学校学生の受け入れるところとなり、師範学校の卒業生たちが県下各地の教壇に立って﹃信濃の国﹄を教えことから、全県に普及した。その後は、県内各小学校の行事等で歌うことが慣習となった。 1918年に70歳で退職するまで教諭を務め、さらに嘱託として1926年6月まで教壇に立ち、40年間にわたってで長野師範学校の教育に尽くした。1926年7月に松本に帰ると、彼のもとを訪ねる卒業生は後を絶たなかったという。 == 脚注 ==
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