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[[1849年]]︵[[嘉永]]2年︶10月10日に[[松本藩]]士大岩昌言︵まさのり︶の三男として生まれる。[[幼名]]を、大三郎、大義といった。[[1861年]]︵[[文久]]元年︶に松本藩士浅井持満の[[養嗣子]]となって、継之助勝哉と改名し、のちに洌と改めた。この時代の武家の子弟の習いとして、幼いころから[[四書]]の[[素読]]を習い、[[藩校]]﹁崇教館﹂で[[漢学]]を学び、[[武術]]・[[日本泳法|泳法]]の免許を得た。[[1865年]]には松本藩の[[長州征討]]に参加した。 [[ この時代には、浅井洌は民権教師の一人でもあった。[[1880年]]︵明治13年︶2月に発足した自由民権運動の[[結社]][[奨匡社]]︵しょうきょうしゃ︶の創立にあたっては、[[上条螘司]]・三上忠貞・[[武居用拙]]・太田幹ら他の教員とともに20人の創立委員の1人として名を連ねている﹂<ref>﹃長野県の歴史﹄253~254ページ</ref>。しかし当時、明治政府は民権運動の弾圧に乗り出し、1880年[[4月5日]]に[[集会条例]]を定めて、政治集会に教員や生徒が参加することを禁止し、長野県は政府の作った﹁小学校教員心得﹂を1881年7月に全教員に配布して政治活動を禁止するなど、様々な弾圧を加えた<ref>﹃長野県の歴史﹄254ページ</ref>。この弾圧を受けて、浅井は教育に専念するようになる。 |