「浅井洌」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
リンクの転送回避 |
||
75行目:
[[1869年]]︵ [[明治]]2年︶崇教館の句読掛となり、翌年には藩命で上京し、[[林鶴梁]]に師事した。[[1872年]]︵明治5年︶に設置された[[筑摩県|筑摩県学]]で教師を務め、翌[[1873年]]5月に、﹁[[学制]]﹂による第一番小学[[旧開智学校|開智学校]]が開校すると、その[[訓導]]に任じられた。同年秋、[[師範講習所]]に入学して近代教育の知識を得て、[[1874年]]から[[1881年]]まで松本の盛業学校︵のちに出柳学校︶の教師を務める。さらに、1881年4月から[[1886年]]︵明治19年︶8月まで、松本中学校教員として、国語・漢文・歴史を教えた。自宅でも自習学舎という私塾を聞き、[[木下尚江]]︵社会運動家・小説家︶、[[百瀬興政]]︵医師・松本市長︶らが学んだ。 この時代には、浅井洌は民権教師の一人でもあった。[[1880年]]︵明治13年︶2月に発足した自由民権運動の[[結社]][[奨匡社]]︵しょうきょうしゃ︶の創立にあたっては、[[ [[1886年]]︵明治19年︶に、長野県尋常師範学校勤務を命じられ[[長野市|長野]]に移り、漢学・国文・歴史を担当する。松本中学での同僚だった[[志賀重昂]]の影響を受けて[[地理学]]にも関心を深め、[[修学旅行]]で生徒を引率するなど、各地域の見聞も多かった。また、歌道に励み、七五調の長歌をつくるようになった。教員学力試験の検定試験委員にもなり、また﹃信濃名勝詞林﹄の編集に参画して、地理・歴史の知識はさらに深まる。 |