「浜名湖」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→歴史: 修正 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
→歴史: 無ソースの「佐久間軍は恐れて戦わずして撤退」記述がありましたが、交戦し犠牲者も出していますので訂正。 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
||
56行目:
しかし、[[明応]]7年︵[[1498年]]︶に起きた[[明応地震]]やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分︵砂提︶が決壊し現在のような[[湖沼#その他の水質による分類|汽水湖]]となった。この大災害は舞阪から弁天島を分け、その津波により村全体が引っ越したことから村櫛︵現在の浜松市西区[[村櫛町]]︶という地名が付くほどであった。また気賀の地震の神社の様が流れ着いた︵元は新居の神様︶など、記録や伝承が残る。 この時に決壊した場所は'''今切'''︵いまぎれ︶と呼ばれ、その後は渡し船で往来するようになった。今切は文字通り﹁今切れた﹂という意味である。[[元亀]]3年︵[[1572年]]︶の[[三方ヶ原の戦い]]で、[[徳川家康]]への援軍として参陣していた[[佐久間信盛]]が[[武田信玄]]率いる武田軍団 近代での'''今切の渡し'''(いまぎれのわたし)は東西交通の難所として広く知られたが、現在では鉄橋や道路なども通り安全に往来できるようになっている。
|