「濱口雄幸」の版間の差分
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濱口内閣当時、緊縮政策と金輸出をテーマにした歌謡曲『緊縮小唄』([[西条八十]]作詞・[[中山晋平]]作曲)の[[レコード]]が[[日本ビクター]]より発売された。
==== 協調外交 ====
[[ファイル:Kijuro Shidehara 1930.jpg|thumb|left|200px|1930年外相時の幣原]]
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[[1930年]]︵昭和5年︶[[11月14日]]、濱口は現在の[[岡山県]][[浅口市]]で行われる陸軍の演習<ref group="注釈">演習は11月14日に現在の[[福山市]]で、15日に浅口市で実施。天皇は14日の演習から観閲したが、濱口は15日の演習に随伴する予定だった。</ref>の視察と、[[昭和天皇]]の[[行幸]]への付き添い及び自身の国帰りも兼ねて、午前9時発の[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]行き特急﹁[[つばめ (列車)#鉄道省﹁燕﹂|燕]]﹂に乗車するため[[東京駅]]を訪れる。午前8時58分、﹁燕﹂の1号車に向かって第4ホームを移動中、[[愛国社 (1928年-)|愛国社]]社員の[[佐郷屋留雄]]に至近距離から銃撃された。銃撃された濱口は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていたが、弾丸は骨盤を砕いていた。自身の回想によれば、銃撃の直後は小さな音とともに腹部に異状を感じたが、激痛というべきものはなく、ステッキくらいの物体を大きな力で下腹部に押し込まれたような感じであったと云い、同時に﹁うむ、殺ったな﹂﹁殺されるには少し早いな﹂というような言葉が脳裏に浮かんだという。駅長室に運び込まれた濱口はかけつけた[[東京大学|東京帝国大学]]外科学主任教授の[[塩田広重]]の手によって輸血が施され、様態の安定に伴い、[[東京大学医学部附属病院|東京帝国大学医学部附属病院]]に搬送され、同病院にて腸の30%を摘出する大きな手術を受けて一命を取り留めた<ref group="注釈">この時、手術の成否を判断するために放屁できるかが注目され、放屁が出来た際には回復の知らせとして報じられた︵1930年11月17日付 大阪毎日新聞︶。</ref>。 当時、[[原敬暗殺事件]]以降、駅における首相の乗降時は一般人の立ち入りを制限していたものの、首相自身の﹁人々に迷惑をかけてはならない﹂との意向により、立ち入りは制限されていなかった。又、銃撃発生当時、同ホームでは[[ソビエト連邦]]に向けて赴任する[[広田弘毅]]大使が出発しており、見送りに[[万歳三唱]]を行っていた[[幣原喜重郎]]外相やその他多勢は、当初銃撃に気付かなかったといい、広田大使らを乗せた列車もそのまま出発している。その後、銃撃に気付いた幣原外相は事件直後に搬送された駅長室に首相を見舞っている。犯人である佐郷屋は﹁濱口は社会を不安におとしめ、陛下の[[統帥権]]を犯した。だからやった。何が悪い﹂と供述したが、﹁[[統帥権#統帥権干犯問題|統帥権干犯]]とは何か﹂という質問には答えられなかったという。 入院中は幣原外相が臨時首相代理を務め、濱口首相は翌[[1931年]]︵昭和6年︶1月21日に退院した。しかし、野党・[[政友会]]に所属する[[鳩山一郎]]らの執拗な登壇要求に押され、同年3月10日、無理をして衆議院に姿を見せ、翌11日には貴族院に出席している。それでも政友会からの議場登壇要求は止まず、18日には登壇するも声はかすれ、傍目にも容態は思わしくなかった。4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受け、これ以上の総理職続行は不可能と判断。4月13日に首相を辞任した。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めたものの、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分にアクチノミコーゼ︵[[放線菌]]症︶のため<ref>[[服部敏良]]﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶23頁</ref>死去。[[享年]]62(満61歳没)。民政党を牽引してきた濱口の死は党内に後継者をめぐる対立を引き起こすことになる<ref>{{Cite web |url= https://kotobank.jp/word/%E6%B5%9C%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8-14640 |title=浜口雄幸 - 日本大百科全書 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2021-08-23}}</ref>。 |