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入院中は幣原外相が臨時首相代理を務め、濱口首相は翌[[1931年]]︵昭和6年︶1月21日に退院した。しかし、野党・[[政友会]]に所属する[[鳩山一郎]]らの執拗な登壇要求に押され、同年3月10日、無理をして衆議院に姿を見せ、翌11日には貴族院に出席している。それでも政友会からの議場登壇要求は止まず、18日には登壇するも声はかすれ、傍目にも容態は思わしくなかった。4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受け、これ以上の総理職続行は不可能と判断。4月13日に首相を辞任した。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めたものの、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分にアクチノミコーゼ︵[[放線菌]]症︶のため<ref>[[服部敏良]]﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶23頁</ref>死去。[[享年]]62(満61歳没)。民政党を牽引してきた濱口の死は党内に後継者をめぐる対立を引き起こすことになる<ref>{{Cite web |url= https://kotobank.jp/word/%E6%B5%9C%E5%8F%A3%E9%9B%84%E5%B9%B8-14640 |title=浜口雄幸 - 日本大百科全書 |publisher=[[コトバンク]] |accessdate=2021-08-23}}</ref>。 濱口の死因に関しては、後日濱口が放線菌の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿したことによる症状の悪化であると判明したため、犯人である佐郷屋の[[裁判]]では、被告の罪状が[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]と殺人未遂罪のどちらが適用されるべきか大いに紛糾した。審理の結果、狙撃と死亡との間に[[相当因果関係]]がないとして、殺人未遂罪が適用されたものの、1932年︵昭和7年の︶一審判決は[[死刑]]、[[1933年]]︵昭和8年 襲撃現場に当たる位置は現10番線で、現在も東海道本線︵在来線︶ホームで8号車乗り場付近であるが、ホームには目印などはない。真下に当たる中央通路の新幹線中央乗換口付近︵[[圓鍔勝三]]作﹃仲間﹄の彫刻の後方︶に、事件の概要を記したプレートと床面に埋め込まれた印がある。 |