「猪俣津南雄」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
2行目:
==経歴==
[[新潟県]][[新潟市]]生まれ。[[新潟県立長岡高等学校|長岡中学]]を卒業のころ生家が没落し、苦学して[[早稲田大学]]専門部政治経済学科の三学年に編入し、1913年に卒業後研究科に進学、東京外国語学校の夜間にも通う<ref>{{Cite Book|和書|title=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462439/49 会員名簿 昭和2年11月]|page=43|publisher=早稲田大学校友会|year=1927}}</ref> 在野の学者として、農業問題を中心に論文を発表し続ける。
1937年の[[人民戦線事件]]で検挙されるが、腎臓炎悪化のため1939年に執行停止し入院。その後妻と[[別府温泉]]や[[佐渡島]]で療養したが、1942年に[[尿毒症]]の発作により青山の自宅で死去<ref name=nagaoka187/>。
== 家族 ==
アメリカ滞在中に大学院の同級生として知り合ったベルタ・ゲール︵Bertha Gehr︶と結婚するが、のちに離婚。ポーランド系と言われる[[東欧系ユダヤ人]]のアメリカ移民であるベルタは共産主義者で、猪俣がアメリカでマルクス主義に近づき、当地の社会主義者と交流を深めるきっかけを作った<ref name=nagaoka133>﹃日本資本主義論争の群像﹄p133</ref>。[[片山潜]]の助手だった[[田口運蔵]]は﹁猪俣の妻は、[[ロシア]]生まれで米国で教育を受け、[[ニューヨーク]]のロシア移民学校の教師をしていた﹂としている<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463931/185 ニューヨークで仕込まれた左翼の人々]﹃赤い広場を横ぎる﹄田口運蔵 (大衆公論社, 1930) </ref>。1920年代初頭に片山とベルタに遭遇した東欧系ユダヤ人の劇作家[[ショーレム・アレイヘム]]は、ベルタをロシア系ユダヤ人と記し、見た目がまるで日本人のようで驚いたと書いている<ref>"SURVIVOR FROM DEAD AGE" Virginia Carol Hagelstein Marquardt, Smithsonian, 1997, p179</ref>。猪俣が帰国の際に一度別れたが、その後来日し、猪俣が拘留中の1938年に正式に離婚、帰国費用を含むしかるべき金額を猪俣の支援者から受け取った<ref name=nagaoka133/><ref name=nagaoka187>﹃日本資本主義論争の群像﹄p187</ref>。 ベルタと離婚した翌月、長い間実質的な妻であった﹃[[婦人公論]]﹄の元編集者・大塚倭文子と再婚する<ref name=nagaoka187/>。倭文子は18歳で猪俣の愛人となり、猪俣没後に猪俣の弟子である[[高野実]]と再婚し、[[高野孟]]と[[津村喬]]の兄弟を儲ける<ref name=tsumura>[http://kikoubunka.jugem.jp/?eid=1712 注釈]津村喬の気功的生活、2014.10.25</ref>。次男の津村はのちに猪俣津南雄研究会を発足<ref name=tsumura/>。 ==著書==
|