「田辺城 (丹後国)」の版間の差分
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{{日本の城郭概要表
| img =
| img_capt = 二層櫓
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| tower_struct = 不明
| name = 田辺城
| pref = 京都府
| ar_called = 舞鶴城
| struct = 輪郭式平城
| builders = [[細川幽斎|細川藤孝]]
| build_y = [[天正]]
| revamp =
| rulers = [[細川氏]]、[[京極氏]]、[[牧野氏]]
| reject_y = [[明治]]7年([[1873年]])
| remains = 石垣、堀、庭園
| cultural asset = 市指定史跡
| rebuilding things = 櫓・門・塀、模擬櫓
| location = {{ウィキ座標2段度分秒|35|26|44.81|N|135|19|51.51|E|scale:10000}}
| 地図 = Japan Kyoto
| ラベル = 田辺城<br>(舞鶴城)
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| アイコン = 日本の城跡
| ラベル位置 = bottom
}}
'''田辺城'''(たなべじょう)は、[[京都府]][[舞鶴市]]にある[[日本の城]]。
[[鎌倉幕府]]・[[室町幕府]]の八田守護所(丹後守護所)の後身ともいわれ、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]にかけて存在した。別名は'''舞鶴城'''(ぶがくじょう)。舞鶴市指定[[史跡]]<ref>[https://www.city.maizuru.kyoto.jp/0000002476.html 舞鶴市内の指定・登録文化財一覧] 舞鶴市</ref>。
== 沿革 ==
=== 室町時代 ===
[[室町幕府]]の丹後守護所は加佐郡の八田であり、丹後守護の[[一色氏]]は八田の守護館において政務をとっていた(若狭武田氏との抗争中は除く)。この館は平地にあるため、有事の際は背後の建部山にある[[建部山城]]に籠って戦うこととされていた。
=== 戦国時代 ===
[[1578年]]︵[[天正]]6年︶[[織田信長]]の命によって[[守護大名]]の[[一色義道]]を滅ぼし、[[丹後国|丹後]]を制圧した[[細川幽斎|長岡藤孝]]︵幽斎︶は、はじめは[[宮津城]]を居城としたが、京都に近く交通の要所であった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、経営の中心とした。隠居後は、子の[[細川忠興|忠興]]を入城させた。 31 ⟶ 38行目:
{{main|田辺城の戦い}}
1600年︵[[慶長]]5年︶[[関ヶ原の戦い]]が勃発すると、当主になっていた細川忠興は[[石田三成]]率いる西軍の誘いを退け、[[徳川家康]]率いる東軍に加勢した。隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城、 ▲隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城、雲霞のごとく取り囲む西軍を迎え撃った。田辺城はすぐさま、石田三成の家老[[島清興]]の親族にあたる[[小野木重勝]]や豊臣家の重臣[[前田玄以]]の子[[前田茂勝]]が率いる西軍・1万5千人もの大軍で包囲されると、50日にも及ぶ長期戦となった。激闘の末、弾薬が尽きた藤孝は自身のもつ﹁古今伝授の書﹂が戦火で忘却されるのを恐れ、それを[[後陽成天皇]]に献上した。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられた。田辺城を開城した藤孝は敵将前田茂勝の丹波亀山城に入った。 === 江戸時代 ===
[[File:Meirinkan Main Gate ac (2).jpg|thumb|明倫館正門]]
こののち細川忠興は[[九州]][[小倉藩|小倉]]に転封され、[[京極高知]]が丹後一国12万3千石を与えられ仮に田辺城に入城したが、宮津城を再築し宮津城へ本拠地を移した。このとき田辺城の建造物は、ことごとく破壊されたと伝えられている([[一国一城令]])。京極高知の遺言によって京極家は嫡男・高広が[[宮津藩]]7万5千石、次男・高三が[[丹後田辺藩|田辺藩]](舞鶴藩)3万5千石、養子・高信が[[峰山藩]]1万3千石を相続した。▼
▲こののち細川忠興は[[ 初代舞鶴藩主となった[[京極高三]]により石垣の修復や櫓の再建が図られ、荒廃していた田辺城は再興された。▼
▲初代舞鶴藩主となった[[京極高三]]により石垣の修復や櫓の再建が図られ、荒廃していた田辺城は再興された。再建された田辺城は、絵図によると二の丸を中心に再建され、二の丸の南に御殿、二の丸北に二重櫓、二の丸に櫓門2基、三の丸に櫓門が3基建てられていた。 京極氏は3代続いた後、豊岡藩へ転封となり、代わって牧野氏が1668年︵[[寛文]]8年︶3万5千石で入封すると、田辺城の大手門その他の城門・石垣などが改築され、それを代々世襲し[[明治]]の時代まで繁栄した。1869年︵明治2年︶には版籍奉還が行われ、その後、[[紀伊田辺藩]]との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称した。 == 現在の田辺城 ==
[[File:Tanabe Castle Ote Gate ac.jpg|thumb|1992年に模擬復興された城門]]
現在、田辺城跡は公園になっており、[[1940年]]([[昭和]]15年)に復興された二層櫓の彰古館、本来の外堀上に[[1997年]]([[平成]]4年)に復興された城門には田辺城資料館、[[天守]]台石塁などがある。▼
▲現在 == アクセス ==
* [[西日本旅客鉄道
** [[京都駅]]より[[特別急行列車|特急]][[まいづる (列車)|まいづる]]に乗り、約1時間30分で西舞鶴駅着
* [[舞鶴若狭自動車道]]・[[舞鶴西インターチェンジ|舞鶴西IC]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
* [[日本の城一覧#京都府
* [[まいづる細川幽斎田辺城まつり]]
== 外部リンク ==
{{DEFAULTSORT:たなへしよう}}▼
{{Commonscat|Tanabe Castle (Tango)|田辺城}}
* [https://maizuru-kanko.net/archives/sightseeing/666 田辺城資料館(田辺城跡)] 舞鶴観光ネット
[[Category:京都府の城]]
[[Category:現存しない京都府の建築物]]
[[Category:舞鶴市の歴史]]
[[Category:
[[Category:
[[Category:宮津京極家|城たなへ]]
[[Category:田辺牧野家|城たなへ]]
[[Category:丹後田辺藩]]
[[Category:舞鶴市の建築物|廃たなへしよう]]
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