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{{
| 選手名 = 畠山 和洋
| 所属球団 = 東京ヤクルトスワローズ
| 役職 = 二軍打撃コーチ
| 背番号 = 85
| 選手写真ファイル名 = Gk_ryoIMG_5055.jpg
| 写真のコメント =
| 国籍 = {{JPN}}
| 出身地 = [[岩手県]][[花巻市]]
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1982|9|13}}
| 没年月日 =
| 身長 = 180
| 体重 =
| 利き腕 = 右
| 打席 = 右
| 守備位置 = [[一塁手]]、[[
| プロ入り年度 = {{NPBドラフト|2000}}
| ドラフト順位 = ドラフト5巡目
| 初出場 = 2004年8月6日
| 最終出場 = 2019年9月21日(引退試合)
|
* [[専修大学北上高等学校]]
* [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ<br />東京ヤクルトスワローズ]] (2001 - 2019)
| 経歴補足題 = コーチ歴
| 経歴補足 =
* 東京ヤクルトスワローズ (2020 - )
}}
'''畠山 和洋'''︵はたけやま かずひろ、[[1982年]][[9月13日]] - ︶は、[[岩手県]][[花巻市]]出身の元[[プロ野球選手]]︵[[内野手]] ==
=== プロ入り前 ===
小学校から野球を始め、4年時には地元の少年団チームに加入した。当時は野球だけでなく[[バスケットボール]]など他のスポーツも楽しんでいた。進学した[[花巻市立湯口中学校]]にはバスケ部が無かったため、野球に集中する。ずば抜けた飛距離の打撃で活躍したが、フォームは我流であった。中学3年の時に県大会で優勝している。その後、実兄がエースを務めており、[[1972年]]に実父も投手として所属し選抜出場を果たしている、[[専修大学北上高等学校]]に進学した。1年から三塁のレギュラーに定着し、打撃フォーム矯正にも成功した<ref>雑誌﹁週刊ベースボール﹂︵ベースボールマガジン社刊︶2008年6月16日号35-39ページ﹃白球入魂﹁ノーチャンス - 畠山和洋~畠山,正直なバッティングで流れを掴む﹂﹄</ref>。 {{by|1998年}}の[[第80回全国高等学校野球選手権大会]]では、[[如水館中学校・高等学校|如水館]]との1回戦で、雨天コールドによる引き分け再試合を含む2試合に5番三塁で先発出場。計7打数6安打3打点と活躍するが、チームは再試合で敗退した。{{by|2000年}}の[[第82回全国高等学校野球選手権大会]]は一回戦で[[森岡良介]]を擁する[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾]]と対戦し敗退。自身も4打数無安打であった。1年後輩には[[梶本勇介]]が在籍していた。当時は2年生の梶本がエースで4番を務めており、畠山は3番三塁での出場であった。 {{by|2000年}}、[[2000年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|プロ野球ドラフト会議]]で、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]から5巡目
===
{{by|2001年}}、ルーキーイヤーの年にヤクルトはリーグ優勝、日本シリーズを制覇したが一軍出場はなかった。チームの次のリーグ優勝は打点王を獲得した2015年になる。 {{by|2002年}}に19本塁打・56打点で[[イースタン・リーグ]]の {{by|2004年}}8月に[[アレックス・ラミレス]]と入れ代わって一軍に初昇格し、8月6日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]戦で初出場、10月7日の対[[読売ジャイアンツ]]戦で、[[高橋尚成]]からプロ初安打を放った。 52 ⟶ 47行目:
{{by|2006年}}は二軍で過ごす時期が長く、二軍では打率.313・7本塁打・101安打で最多安打を獲得し、[[外野手]]としても45試合に出場した。
{{by|2008年}}は開幕を二軍で迎えたが、[[川島慶三]]の故障や[[アダム・リグス]]の不振もあって4月8日に昇格すると、4月15日の対横浜戦で本塁打を放ち、5月18日の対阪神戦では[[アーロン・ガイエル]]に代わって初めて4番・三塁手で出場し、シーズン終盤まで4番打者として出場。最終的に121試合に出場し、自己最多の9本塁打・58打点という成績を残した。打率も.279を記録し、プロ入り初の規定打席到達を果たした。好球を待って右方向に流す安打が多く、53四球はチーム最多︵セ・リーグ7位︶ {{by|2009年}}に、[[ジェイミー・デントナ]]の加入により、開幕直後は主に代打での出場となり、8月にはデントナと[[宮本慎也]]の離脱によってスタメン出場の機会が巡ってきたが、打率.236・4本塁打・19打点、得点圏打率は.172と、前年よりも成績を落と {{by|2010年}}も当初は代打起用が大半だったが、デントナの不振によって6月下旬からスタメン起用が増え、93試合出場ながら自己最多の14本塁打を記録し、出塁率.380・長打率.551と結果を残した。オフに、1300万円増となる推定年俸4100万円で契約を更改した<ref>{{Cite web |和書 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/12/14/kiji/K20101214Z00001200.html |title=畠山、1300万円増で宣言﹁25本は打てる﹂ |publisher=スポーツニッポン |date=2010-12-14 |accessdate=2024-01-21}}</ref>。 {{by|2011年}}は開幕スタメンこそ逃したが、[[ジョシュ・ホワイトセル]]の怪我で4番で初スタメンとなった試合で2本塁打の活躍。その後は4番として一塁手とホワイトセル出場時は左翼として出場し、オールスターゲームにファン投票で選出。自身初の選出となった。7月22日、第1戦の5回に[[武田勝]]から勝ち越しの3点本塁打を打ちMVPを獲得した<ref> {{by|2012年}}は開幕から調子が上がらず、4番を外され下位打線で起用されることもあったが、オールスターゲームには監督推薦で選出され、2年連続の出場を果たす。地元・[[岩手県営野球場]]で初の球宴開催となった7月23日の第3戦では、全セ・4番でスタメン出場。4回に[[塩見貴洋]]からソロ本塁打を放つなど、4打数2安打1打点を {{by|2013年}}、5月17日の対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦で、[[松永昂大]]から球団初となる逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ<ref>{{Cite news |和書 {{by|2014年}}6月8日の[[埼玉西武ライオンズ]]戦で走塁中に左足を痛めて途中交代、病院で診察を受けた結果﹁左大腿二頭筋肉離れ﹂で全治4週間と診断され、7月29日の阪神戦で復帰し、復帰後初打席初安打が決勝 {{by|2015年}}、4月26日の {{by|2016年}}4月に入り背中の張りを訴えて一時離脱、6月に左[[有
{{by|2017年}}も4月中旬に左 {{by|2018年}}は開幕を一軍で迎える。1度登録抹消されるも5月からシーズン終了までは一軍に帯同していたが、[[坂口智隆]]が一塁のレギュラーに定着したためスタメン出場は少なく、代打での出番が増えた。75試合の出場で打率.248、5本塁打、27打点だった。3年契約が完了し、オフに {{by|2019年}}は9月の時点で一軍の出場がなく、 === 現役引退後 ===
引退会見では今後について指導者として関わりたい意向を示し == 選手としての特徴 ==
2008年に刊行された書籍に、チームトップクラスの長打力を持ち味とする旨の記載が見られる<ref>{{Cite book |和書 |author=小関順二、西尾典文、泉直樹 |year=2008 |title=プロ野球スカウティングレポート2008 |publisher=アスペクト | クラウチングスタイルのような身体を深く沈めるフォームで<ref name=" 一塁ベースから遠い右打者ということもあり、走塁面では一塁到達4.4秒台と平均を下回る<ref>{{Cite book |和書 |author=小関順二、西尾典文、泉直樹 |year=2010 |title=プロ野球スカウティングレポート2010 |publisher=アスペクト | == 人物 ==
* 愛称は「'''Boo'''(ブー)」「'''ハタケ'''」。
* 若い頃は、練習を抜け出して[[パチンコ]]に夢中になる﹁不良選手﹂だった。畠山は当時の自分について﹁練習をサボることしか頭になかった。 * トレードマークは[[ひげ]]。2012年の納会の際に、[[野村克也]]から﹁エース、 * 太り気味の体型やひげを蓄えた風貌から、[[熊系]]として[[オネエ]]界隈での人気は高く、2015年、シーズン中に本塁打と打点の二冠だったにもかかわらずオールスターに選出されなかった際には、[[週プレNEWS]]で界隈が激怒している記事が取り扱われた<ref>{{Cite news |和書 |url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2015/07/15/50714/ |title=セの二冠王・畠山の球宴落選にあの人たちが憤慨していた |newspaper=週プレNEWS | ▲太り気味の体型やひげを蓄えた風貌から、[[熊系]]として[[オネエ]]界隈での人気は高く、2015年、シーズン中に本塁打と打点の二冠だったにもかかわらずオールスターに選出されなかった際には、[[週プレNEWS]]で界隈が激怒している記事が取り扱われた<ref>{{Cite news|title=セの二冠王・畠山の球宴落選にあの人たちが憤慨していた|newspaper=週プレNEWS|da=2015-07-15|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2015/07/15/50714/|accessdate=2021-02-08}}</ref>。 == 詳細情報 ==
153 ⟶ 146行目:
=== 年度別守備成績 ===
{| class="wikitable" style="font-size:small; text-align:right; border-collapse:collapse; padding:
!rowspan="2"|年<br />度!!rowspan="2"|球<br />団!!colspan="6"|[[一塁手|一塁]]!!colspan="6"|[[三塁手|三塁]]!!colspan="6"|[[外野手|外野]]
|-style="line-height:1.25em;"
219 ⟶ 212行目:
* オールスターゲーム敢闘選手賞:1回(2012年第3戦)
* [[セ・パ交流戦]] 日本生命賞:1回(2015年)
* [[燕市]]年間最多ヒーロー賞‥1回︵2011年<ref>{{Cite web |和書 |url=http://www.kenoh.com/2011/11/29tsubamenkaiken.html |title=鈴木力燕市長が定例記者会見、総額1億8,000万円の一般会計12月補正予算案など6項目を発表 |publisher=ケンオー・ドットコム |date=2011-11-29 |accessdate=2017-08-06}}</ref><ref>{{Cite web |和書 |url= === 記録 ===
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* 初先発出場:2004年10月6日、対[[阪神タイガース]]28回戦([[明治神宮野球場]])、8番・[[一塁手]]で先発出場
* 初安打:2004年10月7日、対[[読売ジャイアンツ]]28回戦(明治神宮野球場)、6回裏に[[高橋尚成]]から中前安打
* 初本塁打・初打点・初得点:2005年8月19日、対[[阪神タイガース]]15回戦(明治神宮野球場)、7回裏に[[河端龍]]の代打として出場、[[藤田太陽|太陽]]から左越ソロ
* 初盗塁:2008年8月30日、対横浜ベイスターズ19回戦([[横浜スタジアム]])、1回表に二盗(投手:[[小林太志]]、捕手:[[相川亮二]])
; 節目の記録
* 100本塁打:2015年4月26日、対[[読売ジャイアンツ]]6回戦(明治神宮野球場)、5回裏に[[高木勇人]]から左越ソロ ※史上273人目
* 1000試合出場:2016年5月25日、対[[阪神タイガース]]10回戦(明治神宮野球場)、6番・一塁手で先発出場 ※史上476人目<ref>{{Cite web |和書 |url=
; その他記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回(2011年 - 2012年)
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
== 関連項目 ==
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* {{NPB|31235113}}
{{東京ヤクルトスワローズの選手・スタッフ}}
{{Navboxes|title=業績
|list1=
{{日本プロ野球オールスターゲームMVP}}
{{日本プロ野球交流戦優秀選手}}
266 ⟶ 258行目:
}}
{{ヤクルトスワローズ2000年ドラフト指名選手}}
{{2002 アジア競技大会野球 日本代表}}
{{
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:野球日本代表選手]]
276 ⟶ 269行目:
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:NPBオールスターゲームMVP]]
[[Category:専修大学北上高等学校出身の野球選手]]
[[Category:岩手県出身の人物]]
[[Category:1982年生]]
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